陳寿 | |
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西晋 太子中庶子 | |
出生 |
建興11年(233年)? 益州巴西郡安漢県 |
死去 | 元康7年(297年)? |
拼音 | Chén Shòu |
字 | 承祚(しょうそ) |
主君 | 劉禅→武帝(司馬炎)→恵帝朝 |
二十四史 |
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二十四史 |
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その他 |
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中華人民共和国版『清史』 |
陳 寿(ちん じゅ、建興11年〈233年〉? - 元康7年〈297年〉?[注釈 1])は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者として知られる。甥は陳符・陳蒞・陳階[注釈 2]。
陳寿の生涯を書いた史料としては、唐代に編纂された『晋書』および東晋時代に編纂された『華陽国志』が存在する。しかし、相互に矛盾する記述も多く散見される[3]。
益州巴西郡安漢県を代表する名門には陳氏・趙氏・閻氏・范氏があり、「安漢四姓」と称された。陳寿の出自はそのうちの一つ「巴西陳氏」である。
陳寿は初め学識の高い譙周に師事し儒学と史学を修め、蜀漢に仕えた。その後の経歴には諸説があるが、衛将軍諸葛瞻の主簿、宮中文庫の管理者である東観秘書郎をつとめた。『晋書』によれば、当時権威を振るっていた宦官の黄皓の意思に従わなかったために、左遷や降格の待遇を度々受けたという[4][注釈 3]。また父の服喪中、病気に罹ったため下女に薬を作らせていたことが発覚し、親不孝者として謗られた[6][注釈 4]。
蜀漢滅亡後、王崇・寿良・李密・李驤・杜烈(杜軫の弟)と共に都に入った。6人は益州・梁州を代表する俊才とされた。彼らの仲は晋に仕えるうちに疎遠となっていったが、王崇一人は寬和な性格であったため、5人との友誼を保ち続けたという。暫く仕官できなかったが、同門でかつての同僚の羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。佐著作郎(7品官)に始まり著作郎をつとめ、杜預・張華の推挙により治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎と官を進めた。
また益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、張華・杜預・荀勗に高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した[7]。晋による三国統一後、『三国志』を完成させた。当時の人々は、陳寿には良史の才があると言って褒めた。また張華は『三国志』を高く評価し、「『晋書』を君に託したい」と称賛した[8]。『華陽国志』によれば、張華と荀勗は『古国志』を好んで読み、陳寿は過去の歴史家である班固や司馬遷にも勝ると激賞した[9]。
その後、張華は中書郎に挙げようとしたが、張華と対立していた荀勗は陳寿を厭わしく思い、官吏に誣告して外地の長広太守に左遷させた[注釈 5]。陳寿はこれを母の病気を理由に辞退したが、杜預の推薦により、検察秘書官である御史治書に任命された。しかし母(『華陽国志』によると継母)が死去したため離職し、母を遺言どおり洛陽に葬った。ところが、郷里の墳墓に葬る礼法に反しているとされ再び非難された。
都に戻った陳寿は皇太子司馬遹の太子中庶子とされたが、『晋書』によれば拝命しなかった。『華陽国志』では太子中庶子と散騎常侍を兼ねたとあり、恵帝が陳寿の才能を認める言葉を残すほど称賛し、張華も九卿に取り立てようとしたという[12]。『晋書』では太子中庶子在任中の元康7年(297年)に65歳で没したとあるが、『華陽国志』では元康9年(299年)に司馬遹が廃太子とされた後に散騎常侍とされたとあり、なおも生存している。張華は永康元年(300年)に失脚し処刑されるが、陳寿がこれに連座したという記録はなく、その後、洛陽で没したという[13]。『晋書』では元康7年(297年)に65歳で没したとあるため、生年は建興11年(233年)とされるのが一般的であるが、この没年を否定する説もある[3]。
『三国志』は、編纂された当時から優れた歴史書として名高かった。夏侯湛は『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという[16]。南斉の劉勰は、孫盛『晋陽秋』や『魏略』、『呉録』、『江表伝』などといった著作群を、勿体ぶっていて検証しがたい内容であるか、あるいは内容が空疎で肝心なことについての記述は少ないかであると非難する一方、「陳寿の『三国志』のみは文章に洞察と知識とが行き渡っていて、荀勗と張華が司馬遷と班固に比したのも、妄りに称誉したものではない」と称賛している[17]。
『三国志』は三国の内の魏を正統として扱ったが、魏を正統とした類書はほとんどが『魏書』(王沈の著など)など、魏単独の表題としていた。蜀漢や呉の歴史は、あくまで『魏書』の中で語られたのである。これに対し陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も『魏書』『蜀書』『呉書』と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。また、元々は蜀漢に仕えた人物であったため、敬語の使い方などからも蜀漢を比較的よく扱おうとする姿勢が見える。隋の李徳林は『重答魏收書』において、「陳寿は蜀の人であるから、魏を漢賊とした」と述べている[18]。
『三国志』は私撰だったが、陳寿の死後に梁州大中正・尚書郎の范頵の上表を受けて『三国志』を筆写するよう勅命が下り、事実上公認の史書となった[19]。その後唐の太宗の時代に正史と認定された。なお『古国志』・『益州耆旧伝』など、『三国志』以外の彼の著作物は現存していない。
『晋書』によれば、陳寿が私怨により筆を曲げたという噂が、彼が存命していた時点で流れた。例えば、魏の丁儀の子孫達に、当人の伝記について「米1000石をいただけるなら、あなたのお父上のためによい評伝を記しましょう」と言って原稿料を要求し、それを断られたため丁儀の伝記を書かなかったという話がある[20]。また、かつて諸葛亮が自分の父を処罰し、自身が子の諸葛瞻に疎まれたことを恨んで、諸葛亮の伝記で「臨機応変の軍略は、彼の得手ではなかったからであろうか」とそれを低く評価し、諸葛瞻を「書画に巧みで、名声は実質以上であった」などと書いたのだ、といった話も伝わっている[21]。
以上、いずれも正史『晋書』に収録された逸話であるが、『晋書』という史書の正確性については批判的な評価が多い。丁儀一族は曹丕に誅殺されており、子孫は存在さえ疑わしい。また、陳寿は諸葛亮の軍事能力に疑問符を付けたとはいえ、彼の政治家としての才能は非常に高く評価しており、『諸葛氏集目録』の完成を司馬炎に奏上した中で、諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をもった人物で当時の人々は彼を高く評価していたとした上で、北伐の敗因を天命に帰すなど、総合的な評価としては諸葛亮を賞賛している。
諸葛瞻について肯定的な評価をしていないのは事実である。『晋書』の他にも、孫盛『異同記』には、「陳寿が諸葛瞻から恥辱を受けた恨み故に、『三国志』で諸葛瞻を悪く書いた」と語る蜀漢の長老の話を常璩が聞いたことを記しており[22]、陳寿に対する同様の悪評は、340年に完成した王隠『晋書』など類書に記録されており早くから広まっていた[注釈 6]。だが諸葛瞻については、東晋の干宝も『晋紀』において、国家を守り父の志を継いで忠孝を尽くそうとした点は評価しながらも、能力についてはさほど評価するほどではないとしている。
陳寿の曲筆を指摘するもので最も批判を受けたのが高貴郷公殺害の経緯である。西晋に仕えたという立場上、その禅譲という正統性に対して重大な瑕疵を与えうるこの件に関して陳寿は隠蔽せざるを得ず、詳細を記述していない[23][注釈 7]。唐代の考証学者劉知幾は著作の『史通』にて、先述した『晋書』の丁儀の逸話を根拠に、伝記を著す動機に誠実さが欠けるという理由で、陳寿を王沈・陸機・班固ら数々の歴史家とあわせて「記言の奸賊、戴筆の凶人」と罵倒し、「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した[24]。また『三国志』後主伝に「蜀には史官がいないから、災祥も記録されなかった」と記したにもかかわらず、蜀志には災祥に関する記録が依然散見されることを指摘し、「史官が設けられなかったのであれば、これらの災祥は何によって記録されたのだろうか。思うに、父が髡刑を受けた辱めゆえに、悪評を加えたのだろう」と難じている[25]。
『晋書』に由来する陳寿の曲筆説を否定する論もある。明代では王志堅が『読史商語』にて、「古の時代より用兵においては、奇策なしに戦功を打ち立てた者はいない。諸葛孔明の用兵の弱点は奇策がなかったことにある。(中略)陳寿が孔明を管仲・蕭何の類と称する一方、用兵は長ずるところではなかったと述べているのは正論である。世間では陳寿が私情で〔諸葛亮を〕貶めたと言われているが、そのようなことはない」と述べている[26]。清代には王鳴盛や趙翼による反論も行われたが、これらは事実誤認があり緻密な考証とは言いがたい[注釈 8]。
また、陳寿はあくまで魏を正統な王朝として扱ったが、蜀に対しては劉備を「先主」、劉禅を「後主」と呼び、即位の際の詔をすべて掲載するなど特別扱いしており、呉の孫権が名を呼び捨てられていることに対して明らかな格差がある[27]。朱彝尊は、これを蜀を正統王朝としたい陳寿の意図が秘められていたのではないかと見ているが、魏を正統王朝としていた西晋期において陳寿の記述が問題視されていた形跡はない[28]。しかし東晋期以降、習鑿歯らによる蜀漢正統論が高まるにつれ、陳寿が蜀漢を正統としていないとして批判が加えられるようになった。その批判者の一人である劉知幾は、上記の李徳林の説に反論し、陳寿は曹操や曹丕の悪行にははっきり言及しないのに、「終始瑕疵のない」劉備のことはその長所を評価せずに短所を指弾していると主張して、「〔陳寿が〕どうして曹氏に背いて劉氏に向かい、魏を疎んで蜀に親しんでいるといえようか」と咎めている[29]。さらに時代が下ると、諸葛亮の神格化や、蜀漢正統論者の朱熹の朱子学が朝廷における儒教の公式解釈とされた事も相まって、陳寿は一層非難を浴びることになった[注釈 9]。一方で、蜀を正統としながらも晋の公式見解に沿わざるを得なかった悲劇の人という見解もみられ、その見地から不遇な人生を送ったという評価も多く行われてきた[30]。
他にも、陳寿が当時の政権である西晋自体におもねり、その正当性を高める記述を行っているという指摘が数多く存在する[31]。田中靖彦が論じるには、恩人である杜預の祖父・杜畿はその業績に比べてはるかに称賛が加えられている上、『三国志』を筆写せよという勅命は、当時の政権である晋にとって都合の良い要素を有していたからとも捉えられる[32]。さらには『三国志』という書名自体が、魏・蜀・呉のいずれにも正統性を与えておらず、ひいてはそれらを統一した晋こそが正統であり、なおかつその偉大さを礼賛することにも繋がるとしている[33]。
また渡邉義浩は、陳寿の諸葛亮批判の背景には、尹黙-譙周-陳寿に連なる「蜀学」と、諸葛亮を中心とする「荊州学」という蜀の国内における学閥の対立が存在し、陳寿が「蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった」と述べているのは、蜀学の重んじる讖緯説を否定する諸葛亮が構築した蜀の史官制度に批判的であった(讖緯説に基づかない歴史や災祥の記録を無価値と考えていた)からだと論じている[34]。