陳錫聯 | |
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プロフィール | |
出生: | 1915年1月4日 |
死去: | 1999年6月10日 |
出身地: | 中華民国湖北省黄岡市紅安県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳錫聯 |
簡体字: | 陈锡联 |
拼音: | Chén Xīlián |
和名表記: | ちん しゃくれん |
発音転記: | チェンシーリエン |
陳 錫聯(ちん しゃくれん、1915年1月4日 - 1999年6月10日)は中華人民共和国の軍人、政治家。野戦軍を中心に転戦を重ね、軍区司令員、重慶市長、砲兵学院院長、党要職、国務院副総理などを歴任した。最終階級は上将。
1915年1月4日湖北省黄岡市紅安県生まれる。かつての名前は「陳錫廉」。生地の紅安県は、中国解放軍の将軍を多数選出した地とされる。
1929年4月 中国工農紅軍に参加。1930年 中国共産主義青年団に加入。1930年8月 中国共産党党員。1933年 紅30軍88師263団営教導員、団政委。1934年 紅4軍11師副師長、師政委。1935年 紅4軍10師政委および師長、紅4軍11師政委および師長、八路軍第129師385旅769団団長。1937年 八路軍第129師769団長、副旅長。太行軍区分司令員、太行縦隊司令員。1938年4月 385旅副旅長。1938年6月 385旅旅長。1943年3月 太行軍区第3軍分区司令員。1943年8月 延安中央党校にて学習。1945年6月 129師太行縦隊政委、晋冀魯豫軍区、晋冀魯豫野戦軍第三縦隊司令員。
1948年5月 中原野戦軍第3縦隊司令員。1949年2月 二野第三兵団司令員、兵団党委副書記。1949年 解放軍第三兵団司令員、兵団党委副書記、川軍区司令員(兼任)。
1949年10月 西南局委員(兼任)。1949年12月 重慶市第一書記、重慶市長、川東軍区軍区司令員。1950年1月 重慶市政協主席。
1950年6月 西南軍政委員会委員。1950年4月 解放軍炮兵司令員、臨時党委書記、党委書記。1954年11月 解放軍総軍機械部部長。1955年-1957年 南京軍事学院戦役係にて学習。1955年 上将に任じられる。合わせて一級八一勲章、一級独立自由勲章、一級解放勲章も叙勲す。
1956年9月、中国共産党第8回党大会において党候補中央委員に選出される[1]。
1957年 解放軍砲兵学院院長(兼任)。1959年10月 瀋陽軍区司令員、党委第二書記、第三書記、第一書記。1960年10月 東北局書記処にて書記に任じられる。1968年5月 遼寧省革委会主任。
1968年10月、第8期12全会において党中央委員に増補[2]。
1969年4月28日、第9期1中全会において党中央政治局委員に昇格した[3]。
1970年3月 遼寧省革委会党的核心小組組長。1971年1月 遼寧省委第一書記。
1969年4月 中共中央軍委委員。
1973年8月30日の第10期1中全会において党中央政治局委員に再選[4]
1973年12月 北京軍区司令員、党委第一書記。1975年1月、第4期全人代第1回会議において国務院副総理に任命される[5]。1975年2月5月、党中央委員会の決定により党中央軍事委員会常務委員に任命[6]。
1977年8月19日、第11期1中全会において党中央政治局委員[7]、および党中央軍事委員会常務委員に再選[6]。
1978年3月、第5期全人代第1回会議において国務院副総理に再任[8]。 しかし、1978年11月から12月にかけての中央拡大工作会議において「すべて派」として自己批判を余儀なくされ、首都を防衛する重要な任務を担う北京軍区司令員を更迭された[9]。
1980年2月、第11期5中全会において辞職を願い出、党と国家の職務からはずれることとなり[10]、4月16日に副総理を正式に解任された[11]。
1988年7月 一級紅星功勲栄誉章を叙勲。1999年6月10日 北京にて死去。享年84。
陈锡联 著 《陈锡联回忆录》 解放军出版社 2007年8月第二版 ISBN 978-7-5065-5418-3
中国人民解放軍
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