『陽暉楼』(ようきろう)は、宮尾登美子の1976年の小説。またそれを原作とする1983年公開の日本映画。
主人公・房子(桃若)は魚屋の両親のもとに生まれ、12歳で芸妓の世界に入ってから10年経つ。若いエリート銀行員・佐賀野井の子を妊娠するが、男は責任を取ろうとしない。房子は女の子を産んだあと、肺病にかかり、やがて短い生涯を終える。
陽暉楼 | |
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監督 | 五社英雄 |
脚本 | 高田宏治 |
原作 | 宮尾登美子 |
出演者 |
緒形拳 池上季実子 浅野温子 |
音楽 | 佐藤勝 |
撮影 | 森田富士郎 |
編集 | 市田勇 |
製作会社 |
東映京都撮影所 俳優座映画放送 |
配給 | 東映 |
公開 | 1983年9月10日 |
上映時間 | 144分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 8.5億円[1] |
東映京都撮影所・俳優座映画放送製作、配給東映で1983年9月10日に公開された日本映画。緒形拳主演・五社英雄監督。カラー、ワイド。上映時間は144分。海外で公開された際のタイトルは"The Geisya"である[2]。
『鬼龍院花子の生涯』に次ぐ五社英雄・宮尾登美子コンビの二作目で、土佐の高知の花柳界を舞台に生きる女衒の父と芸妓となった娘との愛憎を描く。
昭和初期、土佐随一の料亭、陽暉楼を舞台に、女衒の太田勝造、その娘の芸妓・桃若、勝造の愛人・珠子らを中心とした人間模様を描く。(珠子は原作にない人物)
かつて勝造は、娘義太夫の呂鶴と駆け落ちするが、呂鶴は追っ手に斬り殺され、幼い娘が残された。娘は陽暉楼に預けられて成長し、今では売れっ子芸妓・桃若になっている。
勝造は芸妓、女郎をあっせんする女衒である。ある日、稲宗(いなそう)組から、妻の身売りに来た中学教師を紹介される。勝造が男に百円の前金を渡すと、夫婦はそのまま逃げてしまう。勝造は2人を探そうとはしなかった。
勝造の愛人・珠子は、勝造と別れて花を咲かすため芸妓になる、と言いだす。勝造は陽暉楼に連れて行くが、女将に断られる。帰りがけに桃若の姿を見かけた珠子は「これが陽暉楼の芸妓(げいこ)かいな」と捨てぜりふを吐く。桃若への対抗心から、珠子は玉水遊廓に行くことを申し出る。
ある宴席で、桃若は帝大出の銀行員・佐賀野井と出会い、恋心を覚える。一方の珠子は玉水の明月楼に入り、初めての夜にいったんは逃げ出してしまうが、意を決して店に戻る。珠子は売れっ子の女郎となる。 以前、勝造から金を持ち逃げした女は、丸子という芸妓になっており、稲宗組の指図で陽暉楼に入ることになる。
ある日ダンスホールで、桃若ら芸妓とひいき客の一行は、珠子たちに鉢合わせをする。珠子はあてつけるように佐賀野井と一緒にダンスを踊り、皆の喝采を浴びる。ダンスホールの洗面所で、桃若と珠子はつかみあいの喧嘩になる。その夜、桃若と佐賀野井は結ばれる。
桃若はやがて妊娠するが、佐賀野井はヨーロッパに旅立ってしまう。陽暉楼の女将は、桃若の子は旦那の堀川の子だということにして、いずれ桃若に店を継がせようと考えている。しかし桃若は、女将の意に従わず、旦那の堀川と別れ、一人で女の子を産む。胸を病み働けなくなった桃若は、子供を陽暉楼に託す。
陽暉楼の主人はばくち好きで、土佐への進出を狙う稲宗組から借金を重ねる。稲宗組に従わない勝造は命を狙われることになる。
五社は東映の岡田茂社長から「『鬼龍院花子の生涯』がヒットしたら『櫂』も『陽暉楼』も撮らせて下さい」と約束を取り付けていたが[3]、『鬼龍院花子の生涯』を撮った後は、フジテレビの「時代劇スペシャル」を撮る予定だった。しかし岡田社長から「『陽暉楼』を撮ってくれ」と頼まれ、製作途中の「時代劇スペシャル」を断り、本作を撮った(#逸話)。1983年1月20日東映本社と、1月22日に東京プリンスホテルで開催された東映グループ新春感謝パーティで発表された東映1983年度確定番組発表では、本作の封切りは1983年8月6日と発表されていたが[4][5]、東映が4、5年来、夏の大作興行疲れで、9月に興行不振が続くため[6]、『伊賀野カバ丸』/『カンニング・モンキー 天中拳』[注 1]と入れ替えた[6]。製作費約8億円[7]。
宮尾登美子の原作は『鬼龍院花子の生涯』のような劇的な筋立てはなく[8]、似た芸妓がたくさん出る話で、ストーリーを動かす役が足らず、脚本の高田宏治がストーリーを大きく改変した[8][9][10]。高田が五社に映画化を勧めたという[9]。『鬼龍院花子の生涯』で女を書いてお客に受けて自信を付けた高田が、今度は純粋に女を書いてみたいと脚本を執筆した。浅野温子演じる珠子は原作にはなく、勝造の設定やキャラクターも原作(魚屋)とは違う[8][10]。宮尾は映画になって面白くなるのかという疑念があり、なかなか映画化に承知せず[8]。宮尾からのクレームは当初はなかったが[11]、『櫂』のあとで爆発して新聞紙上で「五社と高田はどうしようもない」とボロクソに批判した[10]。高田は「原作者に"あいつには二度と脚本を書かせるな"と言われるぐらいのつもりでやらないといい脚本は書けない」と解説している[10]。公開当時の文献で高岩淡は、「高田宏治の脚本を読んだ宮尾さんが、お世辞とは言え(高田に)あなたはこれやったら、いまの直木賞作家よりよっぽど上手い。ぜひ小説家になりなさいとホメられていた。原作者にホメていただくなんて珍しい。もうわたしの原作を乗り越えて素晴らしい脚本だなどというから、五社さんもすっかりやる気を起こしています」などと話している[12]。
岡田社長から「『鬼龍院花子の生涯』パート2の匂いをさせたら客は来ない、これ一本、という企画だから客は来るんで、同じような顔ぶれ、同じようなイメージだと、どうしたってガクッと落ちる、ガラッと中身も顔ぶれも変えろ」と指示が出た[13]。
脚本も完成し、1983年2月末のクランクインを予定していたが[14]、五社の前作『鬼龍院花子の生涯』での夏目雅子の脱がされ方がスゴかったため、五社作品と聞いて出演を渋る女優が多く、キャスティングに難航し製作発表も延び延びになった[14]。最初は『鬼龍院花子の生涯』と同じ、主演は仲代達矢と夏目雅子のコンビを決めて[14]、1983年1月にあった1983年度東映ラインアップでも主演は仲代と発表されていた[4]。しかし仲代が黒澤明監督の『乱』の撮影スケジュールとの調整がつかず、『陽暉楼』を降板したと複数の文献に書かれている[8][12][15]。高岩淡は公開当時の文献で「『陽暉楼』は当初仲代さんの予定が『乱』の問題もあって、スケジュール的に無理だった。そこで五社さんとの友情で、急遽緒形拳さんが自分からやると言ってくれました」と話している[12]。脚本の高田宏治も「仲代さんはスケジュールの都合で出演不可能になった。緒形拳さんは『女衒の役、面白い』と二つ返事で快く出演してくれた」などと述べている[8]。佐藤正之から「仲代があんまりヤクザばっかりやるのはどうか」と断られたと書かれた文献もある[11]。 夏目雅子の方も突然「スケジュールの調整がつかない」と断ったとされる[14]。夏目が断った"100年に一人の芸妓"[注 2]こと、ヒロイン桃若役には、浅野ゆう子が一度はOKしたものの、急にダダをこね辞退[14]。次いで島田陽子で決定していたが[14][16]、島田も辞退した[14]。他に『鬼龍院花子の生涯』にも出演した夏木マリらの名前が挙がったが、スケジュールが合わず[16]。次いで秋吉久美子に交渉していたが[16]、1983年1月、秋吉側が色々注文を付けるのでクランクイン直前に池上季実子に交代し[16][17]、ようやくヒロインが決まった。これにより秋吉を準主役に回したら、「役が小さくなったのは不満」と秋吉は降板した[18]。池上は「今年で区切りのデビュー10周年。記念になるような映画に出たかったんです。濡れ場ですか?必要なら脱ぐべきです。この作品は、芸者の裏と表を描くものですから、当然です」とキッパリ話した[16]。五社は「結局は全員、裸になってもらいます」と女優陣をビビらせた[16]。
用心棒役の荒勢は、五社監督が大相撲現役時代から荒勢のファンで、キャラクターに注目していたという理由での抜擢[7]。荒勢は以降役者づいた。
1983年1月20日、本読み[19]。1983年3月1日クランクイン[20]。ロケ地として京都府八幡市の淀川沿いの橋本遊郭跡が随所に面影を残しており、一部撮影が行われた[21]。『鬼龍院花子の生涯』『櫂』も同所で一部撮影が行われている[21]。
池上は「1日に1シーンとか2シーンの撮影のペースで、とても良い撮影だった」と話している[22]。また「ああいう芸妓の世界の雰囲気は、いくら着物を着ても、出せる人と出せない人っているから。それがやっぱり怖かったけど。小さい頃から、これは環境なんでしょうけど、そういう人たちが、家によく出入りしていたから、何か自分の感覚の中で覚えてるものがあったと思う」と話している[22]。
珠子(浅野温子)と桃若(池上季実子)が洗面所で水浸しになりながら取っ組み合う、15分に及ぶ長回しの喧嘩シーンが見所の一つである[20][23][24]。この撮影は1983年4月19日に行われた[20]。池上は「あれは本気でやってます。一応段取りは決めましたけど、ワンカット長回しでしょ。その段階では水に濡れてないわけだし、どのくらい着物が重くなって、どれくらい滑って。どれくらい髪がくずれるかなんて、全く計算できないもの。スタッフだって私たちが、どう引っくり返るか分からないし、カメラ移動もどういう風になるか分かんない。温子が私の腹を蹴飛ばした時も、モロに入ってますから。あれは芝居じゃないですね」などと話している[22]。
また、陽暉楼の主人・山岡源八(北村和夫)と丸子(佳那晃子)が温泉旅行に出かけたところに、陽暉楼の女将・お袖(倍賞美津子)が乗り込み、湯の中でつかみ合いの喧嘩になるシーンもある。
重要な舞台となる陽暉楼の参考写真や俯瞰図を見て[25]、その宏大豪壮な様子に関係スタッフは言葉を失った[19]。外景を再現するには現存する建造物を探し出すか、オープンセットを建設するかのどちらかしかないが、重々しい風格がいかにも物語の内容に係わり合っていることから、ロケでは不可能と判断された[19]。このため、セット費用の大半を陽暉楼のオープンセット建設に注ぎ込み、東映京都最大370坪のNo.11のスタジオに陽暉楼本店の巨大な内部のセットが組まれた[19]。セットを見た池上が、思わず「ウワーッ」と声を上げるほど凄いセットだったという[22]。この屋内の配光照明がとんでもなく難しく撮影に難航した[19]。京都撮影所以外にも琵琶湖畔にもオープンセットが建設された[7]。また陽暉楼の何軒もの屋根組みの重なりを全て作るわけにはいかないため、絵合成の力を頼り、その道の第一人者・渡辺善夫に頼んだ。大阪のシーンの通天閣なども合成絵となる[19]。
2024年の今日では有り得ない艶っぽい宣伝キャンペーンが行われ、1983年7月26日に新橋ヤクルトホールで花街の芸者、板前らを一同に集め"花街試写会"が[26]、8月3日は丸の内東映で岡田社長自らが陣頭に立って完成披露試写会が[26]、8月22日は"海の陽暉楼 納涼の宴"と銘打ち、ゴージャスな一夜の芸者遊び、東京湾一周舟遊びが開催された[26][27]。五社英雄監督他、池上季実子ら、若手女優が大半参加し、高知芸者、太鼓持ちらも参加した[27]。一般客を招待したかは不明。
1981年、フジテレビ大改革の象徴的な位置付けとして新設されたのが、毎週二時間の新作時代劇を放送するという前代未聞のプロジェクト「時代劇スペシャル」であった[28]。しかし『鬼龍院花子の生涯』で芸能界に復帰した五社が10年ぶりに手掛けたテレビ時代劇『丹下左膳 剣風!百万両の壺』(1982年10月22日放送)の後は、視聴率が低下した[28]。1983年、起死回生の賭けとして企画されたのが五社の代表作『三匹の侍』の13年ぶりのリメイクだった。フジのディレクター・岡田太郎と佐藤正之が中心となって準備し、大野靖子の脚本も完成。キャスティングが終わり、平幹二朗、加藤剛、長門勇、丹波哲郎のオリジナルキャストの特別出演も決定し、長門は槍の稽古に入り、みんな乗り気になっていた[28]。そこへ東映の岡田茂社長から五社に「『陽暉楼』を撮ってくれ」との要請がきた[28][29]。五社は芸能界に復帰させてくれた岡田社長に強い恩義を感じており、また宮尾登美子作品に挑戦してみたいという欲求もあり、『三匹の侍』のリメイクは断った[28][29]。さらに五社の盟友・佐藤正之も一緒に東映へ行った[29]。大野靖子ら関係者は激怒し、五社は勿論、大野や岡田太郎、能村庸一プロデューサーらに侘びを入れたが、それは修羅場だったといわれる[28]。結局「時代劇スペシャル」は3年で終了し、五社のテレビ界復帰も閉ざされた。
この後、本格的に映画監督として巨匠の階段を昇っていく五社にとっても、人生を賭けたターニングポイントとなったのが本作であった[28]。五社は「これから一匹狼として映画界を生き抜いていく」と決意し本作の撮影前に全身刺青を彫った[3][30]。