隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府が禁教令を布告してキリスト教を弾圧した後も、密かに信仰を続けたキリスト教徒(キリシタン)信者である。以下の2つに分けられ、かつては両者を区別しなかったが、現代では前者を「潜伏キリシタン」と呼ぶことも多い[1]。
潜伏する必要がなくなった現在でもその信仰を続けている信者は自身で「古キリシタン」「旧キリシタン」などと称するとされる(いわゆる「カクレキリシタン[疑問点 ]」。
日本では、1549年に宣教師フランシスコ・ザビエルが来日して以降、キリスト教の布教が行われて次第に改宗する者(キリシタン)が増えていった。しかし、豊臣秀吉による禁教令に続いて、江戸時代には徳川家康も1614年に禁教令を発布してキリスト教信仰を禁じた。さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。段階的に強化された鎖国により、宣教師の来日も密入国以外には不可能になった。
当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ[2]。
「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密組織を作って密かに祈祷文(オラショ)を唱えて祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けたりするなどして、信仰を守り続けた。これらの信仰の形式は地方によって異なる[注 1]。
「潜伏キリシタン」は、当初は国内に広く散在し、九州から北海道(当時は蝦夷地)に至るまで遺物が現存している[1]。多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、長崎県をはじめ熊本県の天草、大分県の臼杵などでは、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けた信仰が広く浸透していたことから、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。
幕末の開国後の1865年(慶応元年)、長崎の大浦天主堂を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになった。
その後、浦上の他にも長崎県の外海や五島などでも信仰を表明する者が多数現れた。しかし、キリスト教はいまだ禁教であったため、信仰を表明した信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧に遭った。
大政奉還後も明治政府は江戸幕府からの政策を継承する形で高札により禁教令を継続し(五榜の掲示)、信徒への激しい弾圧は続いた。これはキリスト教圏の欧米諸国から非難・批判を招いた。明治政府は1873年(明治6年)2月24日、太政官布告により禁教の高札を廃止し[4]、結果としてキリスト教が黙認されることで江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」は事実上、廃止された。それ以降はキリスト教信者ということだけで重罪に処されることが無くなり、再宣教のために来日したパリ外国宣教会などによって、一部を除く多くのキリシタンたちがキリスト教信仰を表明し、カトリック教会の信仰に復帰した。
現在では日本国憲法第19条および日本国憲法第20条により法的にも信教の自由が保証されているため、定義上、潜伏キリシタンは現存しない。
カトリック教会において信徒の「信仰告白」は重要な原則であったが、豊臣政権下でキリシタン弾圧が始まって実際に命を落とす信者が出始めると、信者をどう守っていくかは宣教師にとって課題となった。イエズス会の日本における責任者(準管区長)であったペドロ・ゴメスは著作『講義要綱』の中で、正直に信仰告白を行うことによって生命の危機に晒される場合には信仰を隠したり否定したりすることを容認する姿勢を示した。こうした方針は天正15年(1587年)に大規模な弾圧が始まった豊後国において既に行われていたことがルイス・フロイスの『日本史』(第2部112)から窺える。フロイスによれば、豊後の信徒は①棄教する②外部に対して信徒であることを隠す③引き続き信徒であることを表明する、という3つの選択肢を採ったが、フロイスは②の態度、すなわち「信仰秘匿」の態度を示した人々に対しても非難を行わず、事実上黙認する記述をしている[5]。ただし、こうした「信仰秘匿」の考え方は当時の日本仏教において他宗派からの迫害の対象になることがあった浄土真宗や日蓮宗(法華宗)でも行われており、宣教師や信徒たちがその事情を知って取り入れた可能性も指摘されている。宣教師達は浄土真宗や日蓮宗から改宗した信徒からそうした事情を知る機会もあったと推測され、大規模な弾圧に際して適応主義に即することで殉教を回避して現実的な対応で乗り切ろうとしたと考えられている[6]。また、豊臣政権や江戸幕府の弾圧は本人の心中まで踏み込んだものではなく外見のみに留まっていた。その事情を知る弾圧側の人間の中にも、信徒に対して秘かに「偽りの棄教」を行なわせて「信仰秘匿」をさせることで命を助けようと図る者がいたことが記録に残されている[7]。
江戸時代に潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため(カクレキリシタン)、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教や神道、民俗信仰などとも結びついた。あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とする内容[8]に変化していった。
このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、地域によっては半数以上のキリシタンは改宗に応じなかった[9][注 2]。その後も独自の信仰様式を継承している人たちが、長崎県の一部地域に現在でも存在する[11]。
これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「かくれキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している[12]。少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つとも考えられている[要出典]。最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の平戸市の平戸島や生月島(旧北松浦郡生月町)、長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)や五島列島などの地域が挙げられ、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産も、これらの地域に集中している[12]。
長崎市外海地区、および隣接する旧三重村の樫山(現・長崎市樫山町)などは、江戸時代から多くの潜伏キリシタン組織が継承されてきた地域で、その後カトリックに復帰した者も多かったが、いまも旧外海町の黒崎、出津にはかくれキリシタンの組織が残っている。このうち黒崎には、潜伏キリシタンおよびかくれキリシタンの神社(枯松神社)がある。同神社では「サン・ジワンさま[注 3]」を祀っており、2022年現在でも約40人(約20世帯)が信仰し続けている[11]。黒崎の潜伏キリシタンは、明治になってカトリックに復帰した者、かくれキリシタンを匿った天福寺(長崎市樫山町、仏教曹洞宗)の檀家に留まった者、かくれキリシタンとして先祖の信仰を維持した者とに分かれ、三者の間で互いにわだかまりが残っていた。1998年(平成10年)にこの地のカトリック黒崎教会に主任司祭として赴任した野下千年神父はこれを憂慮し、三者が心を寄せ合う場として枯松神社で共に集い、信仰を守り抜いた先祖を慰霊する祭を実施するよう呼びかけ、2000年に三者の協力による「枯松神社祭」が行われ、現在も毎年行われている[13][14][要検証 ]。
五島列島奈留島(五島市奈留町)の火葬場の裏には現在も聖母マリアの姿をした墓がいくつも置かれている[15][16]。五島列島ではかくれキリシタンの組織は大半が既に解散してしまい、信仰の道具の一部が福江島の堂崎天主堂キリシタン資料館に収蔵されているが、いまも福江島や奈留島、および中通島(旧南松浦郡若松町)にわずかに組織が残っていて信仰が受け継がれている[17]。
平戸島では、かくれキリシタンの集落単位の信仰組織は全て解散・消滅してしまったが、地元の殉教者・殉教地はいまも大切に崇められていて、カトリック教会と合同で慰霊祭が継続して行われている地区もある。また、代々信仰の対象となってきた聖画・聖具などの一部が平戸市切支丹資料館に収蔵されているほか、いまも各家庭で聖画等を保管して個人的に信仰を受け継ぐ信者もいる[18]。
そして生月島では、現在最も多くかくれキリシタンの組織が残っており、独自の信仰行事がいまも伝承されている[19]。平戸市生月町博物館「島の館」には、生月島のかくれキリシタンが信仰の対象としてきた「納戸神」の一部が展示されているほか、かくれキリシタンの人たちによるオラショがCDに収録されて出版もされている。
禁教令が解かれた以降もカトリックに戻らないかくれキリシタンが存在する理由については、様々な要因が考えられている。主なものとしては、次などが挙げられている[20]。
カモフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなってキリスト教の信仰理解が失われてしまい、かくれキリシタンにとって先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を絶やすことなく継承していくことが大切であって、たとえ本来のキリスト教の意味は理解できなくなっても、継承こそ先祖に対する子孫の務めと考えられている[21]。また、明治初期のカトリック教会による宣教の際には、前述の浦上四番崩れなど直前にあった激しい迫害や差別を恐れたり、当時のカトリックの教義が厳格であったりしたため容易に戻って行けなかったこと[注 4]なども、理由として考えられる。
そして現代においては、カトリックとかくれキリシタンの間での認識の違いも生じていて、カトリック教会・信者の側はかくれキリシタンもカトリックと同じ信仰だとみなしているが、かくれキリシタンの人たちは「カトリックとは違う」と意識している例が見られる[23]。あるいは、現代日本において仏教や神道でも見られるように、強い信仰心が失われて単なる伝統として宗教を受け継いでいるに過ぎず、かくれキリシタンもまたその例外ではなく、それゆえにあえてカトリックに復帰する必要性を感じないというケースも見られる[要出典]。ただ、前述の外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とかくれキリシタンの信仰を堅持した者が混在している例は多い[注 5]。
一部の隠れキリシタンの神話では、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、というものがある。旧約聖書の義の神とは明らかに異質なものとなり、西方キリスト教(ラテン教会)の中核ともいうべき原罪の観念が消滅している[25]。
フランシスコ教皇は2014年1月15日の一般謁見演説で、「日本のキリスト教共同体は17世紀の初めに聖職者は追放され一人の司祭も残らず、共同体は非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。約250年後に宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」と公式コメントを声明[26][27]、これについて、パヴィア大学教授のアニバレ・ザンバルビエリは、仏教や神道の影響を受けた隠れキリシタンをキリスト教徒とみなすか否かについては議論が分かれるものの、地域の文化と混じり合うことはしばしば起こるため彼らは「古いキリスト教徒」と呼ぶべきであり、ローマ教皇が彼らを信徒の模範としたように「キリスト教徒とみなさない理由はない」とした[28]。
高祖敏明(聖心女子大学学長=2022年3月 現在[update])が『潜伏キリシタン図譜』を日英対訳で刊行した際[29][30][31]、フランシスコ教皇は「慰めとインスピレーションを得ることが出来る」との言葉を寄せたという[1]。
アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスのホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[32][33]。
隠れキリシタン(潜伏キリシタン・かくれキリシタンいずれも)の一般的な英訳は「Hidden Christians」になる[注 6]。これは明治期の来日宣教師が本国やバチカンへ送った書簡に見られるもので[注 7]、長崎の教会群とキリスト教関連遺産として世界遺産を目指す活動の中でユネスコ世界遺産センターへ提出した推薦書や関係史跡での英語解説にも用いられている。「hide」には「隠れる・潜伏する」「秘めた」「人知れず」といった意味があり、自らの意思による積極性と、追い詰められやむなくの消極的な意味合い双方に解釈でき、微妙なニュアンスが伝わりにくいともされる[要出典]。
北海道には隠れキリシタンの遺構が残っている。1613年(慶長18年)キリシタン宗教の禁教令が発せられると、津軽藩でもキリシタン弾圧が厳しくなった。東北地方の大飢饉のため1617年(元和3年)には、3~5万人の砂金掘りが蝦夷地へ渡ったと言われている。1639年(寛永16年)には松前藩の七世藩主公広(きんひろ)は、幕府の命により、ついに金山のキリシタン宗徒を大量処刑した。松前郡松前町では大沢金山で50人、石崎では6人、大千軒岳では50人の合計106人を処刑した。現在では、千軒金山番所跡と思われるところに慰霊碑がある。その他にも北斗市には「上磯ハリストス正教会野崎墓地」という名称の隠れキリシタンの墓地がある。
岩手県一関市の大籠地区は、隠れキリシタンの里である。1640年(寛永17年)には約3万人の信者がいた。現在は、大籠キリシタン殉教公園として整備され、資料館などの施設が建てられている。また、周辺にはいくつかの処刑場の跡が残る。
岩手県紫波町の朴木金山には隠れキリシタンの墓(十字架模様の墓石)や遺物(マリヤ観音)が残っている。1612年に鉱山ができたごろ、鉱夫の中には多くの隠れキリシタンが含まれていたが、1635年ごろの検挙により一部は上閉伊郡の小友金山に逃げた[34][35]。
福島県郡山市の如宝寺には江戸時代の隠れキリシタンの墓が残っており、市指定重要有形文化財に指定されている[要出典]。
長野県の木曽谷を通る旧中山道沿いの各所には隠れキリシタン信仰の名残が散在している。塩尻市奈良井の大宝寺には子育て地蔵として隠し奉ったが首を落とされてしまったというマリア像[要出典]があり、木曽町日義には折畳みマリア像[要出典]、大桑村の妙覚寺には千手観音に姿を借りたマリア観音像[要出典]、天長院には子育地蔵と呼ばれるマリア地蔵がある[要出典]。
愛知県名古屋市には処刑されたキリシタンを弔うために建立された[要出典]栄国寺があり、境内にはマリア観音など関連資料を展示する「切支丹遺跡博物館」が置かれている。
大阪府茨木市北部(千提寺地区)はキリシタン武将の高山右近旧領に当たり、隠れキリシタンの家々が大正時代まで発見されなかった。ある旧家は長男にのみ伝承して誰にも見せなかった「あけずの櫃」に信仰の品々を保管して伝世させた[要出典]。茨木市立キリシタン遺物史料館に寄託して絵画や彫刻等とともに公開。重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」も、この地の旧家で発見された資料であり、神戸市立博物館が収蔵する。
兵庫県加西市の大日寺で、1972年(昭和47年)に背面に十字を刻んだ石仏が発見される(背面十字架地蔵[36])。また同市は羅漢寺の北条石仏、別称五百羅漢など多数の石仏で知られるが[37]、うち150体ばかりについて隠れキリシタンとの関連を指摘する意見がある[38]。
島根県津和野町には、明治時代初期に長崎から連行されてきた隠れキリシタンの殉教地跡に建てられた「乙女峠マリア聖堂」があり、毎年5月3日には殉教者を偲ぶ乙女峠祭が行われている[要出典]。
大分県竹田市竹田には、隠れキリシタンが礼拝を行うために溶結凝灰岩を刳り貫いて造った、全国でも例を見ない「キリシタン洞窟礼拝堂」(県指定史跡)と、それに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の南蛮人宣教師を匿った「キリシタン神父の住居趾」がある[要出典]。これらはいずれも藩の家老を務めた古田家の私邸敷地内に存在し、現在は私有地ではない。また、キリシタンの遺物と言われる1612年鋳造の「サンチャゴの鐘」は、歴代の岡藩主を祀る中川神社に奉納されている。
福岡県三井郡大刀洗町には国の重要文化財の今村天主堂がある。この教会堂が建つ旧筑後国今村地区は大友宗麟の支配下にあった時期に豊後からキリシタンが移住。1867年(慶応3年)に隠れキリシタンが発見された[39]。
熊本県天草市には民間キリシタン資料館のサンタマリア館がある[要出典]。
宮崎県延岡市松山町には「キリシタン塚」と呼ばれる場所があり、現在は墓地となっている[要出典]。
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