![]() 「アントニーとクレオパトラ」上映時の電気館 (大正3年) | |
種類 | 事業場 |
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略称 | 電気館 |
本社所在地 |
![]() 〒111-0032 東京市浅草区浅草公園六区 (現在の東京都台東区浅草一丁目42番4号) |
設立 | 1903年10月1日 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 輸入映画の興行、のち国産映画の興行 |
代表者 | 河浦謙一 |
主要株主 |
変遷 吉沢商店 1903年10月 - 1912年9月 日活 1912年9月 - 不詳 松竹 不詳 - 1971年 中映 1971年 - 1976年 |
電気館(旧字体:電氣館󠄁、でんきかん)は、かつて東京浅草にあった映画館である。日本初の映画専門の劇場で、明治末年、東京の浅草公園六区に設立された。当初は輸入サイレント映画の専門館であったが、のちに浅草電気館(あさくさでんきかん)と改称、国産映画の専門館となった。また、これに倣って日本全国に多数の「電気館」ができたが、これらについても付記する。
1903年(明治36年)10月1日、吉沢商店が、東京市浅草区浅草公園六区(現在の東京都台東区浅草1丁目42番4号)に、「日本で初めての常設活動専門館」としてオープンした。「常設」というのは当時の活動写真(映画)の上映形態が、映写機を会場に設置しての「移動上映」中心だったことからで、電気館は演劇等の実演を混在させない映画の専門館であった。それまで同地には「電友館」というエックス線実験の見世物小屋があり、「電気館」はこれを改称したものである[1]。
1907年(明治40年)7月、京都の横田商会が、大阪・難波に、日本で2番目、大阪では初の常設映画館「千日前電気館」を開業した。以降、全国各地に「電気館」を名乗る映画館ができた。1911年(明治44年)には、窪寺喜之助が熊本初の活動常設館「電気館」を現在の同市内シャワー通に創設している[1]。熊本の電気館は1914年(大正3年)に現在の所在地に移転以来、現在も存在している[1]。⇒#他地域の電気館
1912年(大正元年)9月、吉沢商店は、福宝堂、横田商会、M・パテー商会との4社合併で「日本活動写真株式会社」(現在の日活)を設立した。「電気館」は日活の直営館となるが、すぐに松竹に手放す。
松竹の経営になってからは、松竹蒲田撮影所製作の映画や洋画の混映館となった。1931年(昭和6年)に帝国キネマ演芸に松竹資本が導入されて、新興キネマに改組されてからは、新興キネマ作品の封切館となる。1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画等と統合されて「大日本映画」(のちの大映)となって以降は、大映の封切館となった。
1971年(昭和46年)11月29日に大映が倒産、その後に、松竹は子会社の中映に「浅草電気館」を移管した。1976年(昭和51年)2月29日に閉鎖された。
閉鎖以降、跡地は更地になり「蚤の市」として機能した。
1987年(昭和62年)9月14日、同地に地上8階・地下2階の「浅草電気館ビル」を建設しようという計画に反対し、東京都と台東区に「おかみさん会」が陳情書を提出した。その後、「株式会社電気館」が建築主、「株式会社高村デザイン事務所」が設計して、商住複合施設「電気館ビル」が完成し、商業部分は「電気館フードコート」となった。
1999年(平成11年) 8月23日、郵政省から「20世紀デザイン切手シリーズ第1集」10種のうちの一つとして電気館の写真を用いた80円切手「常設映画館「電気館」開業」(総合デザイン/郵政省技芸官:森田基治)が発行された[2]。
2000年(平成12年)7月に浅草にオープンしたテプコ浅草館の2階に大正時代の電気館のジオラマが常設展示された[3]。ただしこの施設は2011年に閉鎖されている(運営会社であった東電ピーアールの記事も参照)。
大正時代の電気館分布は下記の通り[4]。