獲得メダル | ||
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日本 | ||
男子 スキージャンプ | ||
オリンピック | ||
銅 | 1972 札幌 | 70m級 |
青地 清二(あおち せいじ、1942年6月21日 - 2008年8月14日)は、北海道小樽市出身のスキージャンプ選手。身長167cm、体重66kg[1]。
小樽緑陵高校(現在の小樽商業高校)から明治大学を経て雪印乳業(現在の雪印メグミルク)に所属。
1967年の全日本スキー選手権大会ジャンプ90m級で優勝した。
1970年3月には宮の森ジャンプ競技場の当時のバッケンレコード85.5mを記録している。
1968年のグルノーブルオリンピックで五輪に初出場したが、90m級で26位に終わる。(4年後の札幌オリンピックの開催が決まっていた日本は、この大会に過去最高の62選手を送り込んだが、メダルはおろか6位入賞すら果たせなかった。)
1972年の札幌オリンピックで2度目の五輪出場を果たし、70m級で銅メダルを獲得した。金メダルの笠谷幸生、銀メダルの金野昭次と共に日本人3人で表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。
この時の2本目のジャンプは、空中でバランスを崩しかけた完全な失敗ジャンプであったが、そこから立て直し、驚異的な粘りを見せて77.5mまで飛距離を伸ばし、関係者を驚嘆させた。
このジャンプについて笠谷幸生が「青地さん以外ならみんな墜落していた」と評している。
現役引退後は雪印の社業に専念し、スキー界から離れたものの、選手OBとしてジャンプ界を応援し続けていた。また、原田雅彦が入社した際にも、原田が配属されたアイスクリーム課の課長として、原田に社会人としての心構えを教えたのも青地であった。
2008年8月14日10時26分、胃がんのため、札幌市内の病院で死去した。66歳没 。晩年はガンとの闘病が続いていたものの、退院後にジャンプについての本を書き、売り上げを青少年ジャンパーのための基金にする構想を描いていたが、志半ばでの死去であった[2]。
※記録は「北海道新聞縮刷版」各年版に依る