青木 篤志 | |
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2016年の青木篤志 | |
プロフィール | |
リングネーム | 青木 篤志 |
本名 | 青木 篤志(あおき あつし) |
ニックネーム |
王道の自衛官 青き閃光 |
身長 | 170cm |
体重 | 85kg |
誕生日 | 1977年9月25日 |
死亡日 | 2019年6月3日(41歳没) |
出身地 | 東京都大田区 |
所属 | 全日本プロレス |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー |
秋山準 小川良成 小橋建太 |
デビュー | 2005年12月24日 |
獲得メダル | ||
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男子 レスリング | ||
全国社会人オープンレスリング選手権大会 | ||
金 | 1999 | フリー69kg級 |
銀 | 2001 | フリー76kg級 |
全日本社会人レスリング選手権大会 | ||
銀 | 2002 | フリー66kg級 |
青木 篤志(あおき あつし、1977年9月25日 - 2019年6月3日)は、日本の男性プロレスラー。元自衛官。東京都大田区出身。最終所属全日本プロレス。血液型B型。
高校時代からアマチュアレスリングで活躍[1]。陸上自衛隊(市ヶ谷第32普通科連隊、朝霞駐屯地、青森第5普通科連隊[2])時代の1999年には、全国社会人オープンレスリング選手権大会69kg級で優勝する[3]。2005年5月、プロレスリング・ノアに入門。秋山準の付き人となった。
2005年12月24日に行われた年末興行でデビュー。当時同じく新人だった太田圭則と組み、三沢光晴&田上明組と対戦した。
2007年12月23日の「SEMful Gift in Differ '07」での秋山との対戦を皮切りに、「青木篤志“閃光十番勝負”」が組まれた。その後、デイビー・リチャーズに勝利するもKENTA、ブライアン・ダニエルソン、小川良成、カズ・ハヤシ、金丸義信、獣神サンダー・ライガー、丸藤正道、2010年2月28日の鈴木みのるの順に敗れ、1勝9敗で終了した。
2009年、新日本プロレス「BEST OF THE SUPER Jr.」に出場[4]。初戦でタイガーマスクに敗れたものの決勝トーナメント出場を果たし、ベスト4に食い込む。
2010年5月23日、新潟市体育館で行われたAAA世界タッグ選手権で王者組の森嶋猛・石森太二に潮﨑豪とのタッグで勝利し、AAA世界タッグ王座(第6代)を獲得した。同年6月6日、メキシコシティで行われたトリプレマニア18にて、AAA世界タッグ選手権(4WAY MATCH)に敗れ、王座から陥落した。
同年7月11日、新日本プロレス後楽園ホール大会において、プリンス・デヴィットが保持するIWGPジュニアヘビー級王座に初挑戦するも、ブラディサンデーで敗れた。同年10月、第4回日テレG+杯争奪ジュニアヘビー級タッグ・リーグ戦にKENTAとタッグを組んで出場し、殆どの試合を自らがフォールを決めるなどして優勝。
同年11月23日、後楽園ホール大会において金本浩二&タイガーマスク組が持つGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦するも敗退。同年12月24日、ディファ有明大会にてパートナーを丸藤にして再度挑戦し、金本からアサルト・ポイントで勝利を収め、初のGHCタイトルを戴冠した。丸藤とのタッグで2度防衛に成功するが、丸藤が負傷で長期欠場することになり、これに伴って王座を返上。
2011年4月に鈴木鼓太郎、石森と「ANTI NO MERCY UNION(ANMU)」を結成し、金丸やKENTAら「NO MERCY」との抗争にかかる。5月25日に鼓太郎とタッグを組んで空位となっていたGHCジュニアヘビー級タッグの王座決定戦に臨むが、金丸&KENTA組に敗れた。8月24日のリターンマッチに敗れるものの、10月16日の2度目のリターンマッチで金丸&KENTA組から王座奪取。以後、2012年7月22日にスペル・クレイジー&リッキー・マルビン組に敗れて王座陥落するまで7度の防衛に成功した。
鼓太郎とGHCジュニアタッグ王座を保持している2012年3月には、秋山軍(後のS・A・T)に加入。12月、年内をもってプロレスリング・ノア退団が会社より発表。12月24日ディファ有明大会を最後にノアを退団した。
2013年1月に行われた決起集会で、青木は小橋からバーニングを託された秋山をリーダーに潮崎、金丸、鼓太郎で再結成した。1月26日、全日本プロレス「2013新春シャイニング・シリーズ」の最終戦に5人で来場し、参戦する事が発表された[5]。4月には、鼓太郎とともにアジアタッグ王座を戴冠。
同年7月5日、全日本プロレスに正式入団。11月より潮﨑、鼓太郎と「Xceed」を結成するも翌2014年2月にはXceedを脱退。
2014年、ウルティモ・ドラゴンのマスクを剥ぎ、世界ジュニアヘビー級王座挑戦を要求。5月16日、後楽園ホールで行われた「2014スーパーパワーシリーズ開幕戦」にて、ウルティモvs青木vs佐藤光留の世界ジュニア王座次期挑戦者査定3ウェイマッチ30分1本勝負を行ない、アサルト・ポイントで佐藤からフォールを奪い勝利。これに青木が「文句はないだろう?」とウルティモにアピールした。これに対しウルティモは、「このベルト賭けておまえとやろうじゃないか!」と受諾[6]。5月29日、後楽園ホールで行われた選手権試合にて、ウルティモ・ドラゴンを変形腕ひしぎ逆十字固めで破り、第37代世界ジュニアヘビー級王者となる。
7月27日、エボリューションに加入。加入後はやる気のない他選手の批判を続け、佐藤とのタッグでJr. TAG BATTLE OF GLORYに優勝、世界最強タッグ決定リーグ戦出場を果たした。
2015年には2年連続でJr. BATTLE OF GLORYに出場、準優勝に終わる。3月27日には鼓太郎に敗れ、世界ジュニアヘビー級王座から陥落(防衛5回)。5月21日にはかねてから舌戦を展開していたXceed・宮原健斗とのシングルマッチに挑んだ。試合は両者持てる技術をフルに使っていたが、試合終盤の宮原のニーリフトを後頭部にまともに食らい、立ち上がれなくなったところでレフェリーストップとなりKO負けを喫した。また、6月4日のエボリューション対Xceedのキャプテンフォールマッチで、キャプテンの諏訪魔が宮原からフォールを取られ負けてしまうが、7月8日のキャプテンフォールマッチ再戦では、青木が相手チームキャプテンの潮崎からアサルトポイントでフォールを奪った。試合後に最終戦でジョー・ドーリングと組んでの世界タッグ王座挑戦をアピールし、7月25日後楽園ホール大会にて潮崎・宮原組の持つ王座に挑戦するが敗退。
同年6月27日、ハードヒットに参戦し、中学時代の同級生和田拓也と10分1本勝負を行う。結果は10分時間切れとなったが残りロストポイント2-1で勝利した。11月7日、ハードヒットにてダン・セオドアとユニファイドルール・3分1ラウンドで対戦。結果は引き分け。
2016年1月3日、佐藤光留プロデュースハードヒットルール「隊長vs組長」と題された試合にて、藤原喜明と対戦。試合内容は中盤から藤原が打撃禁止のルールを破り頭突き攻撃を行うなど躍動、高度な腕の極め合いを見せたところで時間切れ引き分けとなった。
同年2月、ドイツ・ベルリンで開催される『GLOBAL WARNING』に、アジア代表として5日 - 6日と連続参戦。またJr. BATTLE OF GLORYで、Bブロック1位橋本和樹の負傷欠場を受け、丸山敦との挑戦者決定戦を勝ち上がってきた佐藤光留と決勝戦を争い勝利。優勝とともに第39代世界ジュニアヘビー級王者となる。また2月28日にはハードヒットに参戦、大江慎を相手にシュートボクシングルールで対戦し引き分け。
同年4月、チャンピオン・カーニバルに出場予定だったジョー・ドーリングに悪性の脳腫瘍が発見され、その代わりにチャンピオン・カーニバル初出場。Bブロックで3勝3敗、得点6に終わる[7]。
同年6月19日、佐藤との防衛戦に敗れ世界ジュニアヘビー級王座を手放す(防衛3回)。
同年12月29日のハードヒットでは平直行と対戦。7月16日、ハードヒット・新木場大会でキックボクサーの前口太尊と対戦[8]。
2017年11月頃より青木はマスクを被り、試合をするようになる(コスチュームもツーショルダーのロングタイツに変更)。ただしリングネームは本名のまま変えておらず、またはマスクを被る理由も明らかにしていない。
2018年2月3日、TAJIRIに勝利し第47代世界ジュニアヘビー級王座を戴冠(自身3度目)。4回の防衛に成功するも同年8月26日に岩本煌史に敗れ、王座から陥落した。これを機に再び素顔に戻る[9]。
2019年、真霜拳號の負傷欠場を受けチャンピオン・カーニバルに2度目の参戦。しかしAブロックで4勝4敗、得点8に終わる[10]。
2019年5月20日、後楽園ホールで岩本を破り、世界ジュニアヘビー級王者に返り咲く(第51代)。
2019年6月2日、神戸サンボーホールでの6人タッグマッチが青木の生前最後の試合となった。
2019年6月3日22時33分頃、青木は月1回放送のインターネット番組、ニコニコ生放送「青木篤志の毒演会」に出演するため、自ら運転するバイクでスタジオに向かっている途中、首都高速都心環状線外回りの千代田トンネル出口付近で側壁へ衝突し転倒、都内の病院に搬送されたが同日22時41分頃、死亡が確認された[11][12][13][14]。41歳没。青木は同月18日、佐藤との世界ジュニアヘビー級初防衛戦を控えていた矢先の事故死であった[15]。
全日本プロレスは王座防衛期限である半年間(同年11月20日まで)、青木の没後も王者と認定し、その間は選手権試合を行わない意向を示した[16]。8月11日に青木の追悼大会が開催され、引退した青木と同期の太田一平が限定復帰するなど、ノア所属選手やゆかりの人物が多数参加した[17]。
2020年8月15日、青木の追悼大会「青木篤志メモリアル AAforever」が開催された。KagetoraやGOSAMARUなど、青木のゆかりの人物が参戦した[18]。
全日本プロレスは青木の没後以降も肖像権管理、その貢献を称える意味も含め、2024年11月に公式サイトをリニューアルするまで所属選手欄に青木を掲載し続けていた。また青木家へ世界ジュニアヘビー級チャンピオンベルト(2代目)をメモリアルとして贈呈している[19]。
新しい順に紹介。