饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年9月25日)- 1922年6月20日)は、明治時代の日本の小説家、演劇評論家。根岸派の重鎮。本名は與三郎。別号は竹の屋主人[1][2]、龍泉居士[3]、太阿居士。居住地の南傳町二丁目より南傳二とも。日本人として初めてポーの作品を翻訳した人物としても知られる。
ほぼ独学ではあるが和漢学に造詣が深く俳諧の道にも明るかった[4]。作家としては「戯作者」世代と坪内逍遥、幸田露伴ら新時代の作家たちとの過渡期に位置づけられる。篁村はこの時期の代表的な作家のひとりと見られており、幸田露伴は、饗庭篁村と須藤南翠が明治20年前後の「二文星」、「当時の小説壇の二巨星」であったと記し[5]、江見水蔭は「篁南両大関時代」としたという[6]。
篁村は読売新聞に編集記者として執筆していたが、1886年(明治19年)1月、前年に「小説神髄」と「当世書生気質」を世に出していた坪内逍遥(春のや主人)と知り合い、3-5月、読売新聞に長編「当世商人気質」を連載。これは人情の機微を穿った平明軽妙な文章で「商人(あきうど)」という職業身分の類型を3つの説話に描いたもので、篁村の出世作とされる。
「紀行文」でも、成島柳北とならんで明治初期、20年ごろの時期における代表的書き手で、根岸党の友人達との旅の紀行文などを新聞に連載した。明治20年代以降、幸田露伴、尾崎紅葉など、後進の小説家が新時代の小説を世に出すようになり、篁村は著作活動の比重を劇評や江戸文学研究に移していく。後年は「竹の屋主人」の名で朝日新聞に劇評を連載。
篁村は1886年(明治19年)、下谷根岸に居を構え、付き合いのあった作家達ともども「根岸党」(のちに「根岸派」)と呼ばれるようになった。当時交友のあった人々には、劇通幸堂得知、画家高橋応真、高橋太華、岡倉天心、画家川崎千虎、森田思軒、中井錦城など。宮崎三昧、幸田露伴、陸羯南、須藤南翠も根岸党と目されていた。篁村は彼らと酒を酌み交わして歓談し、またともに旅を楽しんで紀行文を残した。
1855年(安政2年)、江戸下谷龍泉寺町に饗場(戸籍面)與之吉の五男として生まれる。先祖は近江の医者の家。父の代で東京に出て呉服屋を開いたが、篁村誕生当時の家業は質屋。生まれた年の10月2日に起きた安政の大地震で母を失う。その際、赤ん坊であった篁村を助けたのが「近くの竹村氏」であり、それにちなんで後に「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたという[7]。本人は自伝的短文で「竹村何某方に里にやられ乳をのみたる母の恩を忘れぬ為なり」と書いている[8]。
11歳から15歳まで日本橋新材木町の箱根屋という質屋に奉公に預けられたが、女婿山田清作の聞き書きによれば、主人に愛されて貸本は読み放題、「観劇の常侶(つねども)を承ったり」という状態で、篁村の「劇や俳諧に関する修養」や「遊芸乃至花柳界に関する知識」はこの丁稚奉公時代に養われたものであるという。1869年(明治2年)、15歳で生家にもどり兄與之吉の下で家業を手伝う。1874年(明治7年)、19(20)歳で日就社(読売新聞発行元)に入社し校正を担当。1876年(明治9年)、入社した高畠藍泉(三世柳亭種彦)に引き立てられ読売新聞の編集記者となり、紙上に様々な文を発表し、やがて岡本起泉、古川魁蕾とともに「文壇三才子」と称されるようになる。
1886年(明治19年)1月に坪内逍遥と知り合う。このころ、根岸御隠殿に転居。3月23日-5月20日、読売新聞に長編「当世商人気質」を連載(第1回のみ「今様商人気質」)。同年に長編「人の噂」、1887年(明治20年)ポーの翻案「西洋怪談 黒猫」・「ルーモルグの人殺し」、1889年(明治22年)短編「良夜」ほか、著述多数を発表。1889年(明治22年)7月5日から1890年(明治23年)12月30日にかけて、著述全集ともいえる『小説 むら竹』20巻を春陽堂から出版。1889年(明治22年)、東京朝日新聞に移る。入社直後から1922年(大正11年)まで「竹の屋主人」の名で朝日新聞に劇評を執筆する。1892年(明治25年)には東京専門学校(現早稲田大学)で近松門左衛門を講じている。1919年(大正8年)、東京朝日新聞社客員。1922年(大正11年)、脳の障害のため死去。勸文院篁村清節居士。本郷駒込染井墓地(現在の染井霊園)に眠る。