香椎 浩平 | |
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1936年、戒厳司令官時 | |
生誕 |
1881年1月25日 大日本帝国福岡県嘉穂郡 |
死没 |
1954年12月3日(73歳没) 日本福岡県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1901 - 1936 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
東京警備司令官 第6師団長 支那駐屯軍司令官 歩兵第10旅団長 歩兵第46連隊長 |
戦闘 |
日露戦争 二・二六事件 |
香椎 浩平(かしい こうへい、1881年(明治14年)1月25日 - 1954年(昭和29年)12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士12期、陸大21期。最終階級は陸軍中将。 栄典は正四位勲一等功四級。 陸軍中将・香椎秀一の弟。皇道派。
福岡県嘉穂郡大隈町(現:嘉麻市)出身。士族・香椎昌の次男として生まれる。市ヶ谷の陸軍幼年学校を経て1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。同期に杉山元、畑俊六、小磯国昭、二宮治重、柳川平助らがいる。
1904年、日露戦争に中隊長として参加し負傷する。帰国後陸軍大尉に昇進。1909年、陸軍大学校(21期)を卒業。寺内寿一、植田謙吉、中村孝太郎、西義一、古荘幹郎、建川美次、多門二郎らが同期。その後、青島守備軍参謀、ドイツ大使館付武官兼スウェーデン公使館付武官、歩兵第46連隊長、歩兵第10旅団長、陸軍戸山学校長と順調に出世し、1934年には第6師団長になった。
二・二六事件が発生した当時、香椎は帝都の治安を担う警備司令官の地位にあった。しかし事件は全く寝耳に水で、早朝に電話で知らされて初めて知ったという。同日午後、叛乱を穏便に収める目的で陸軍大臣告示が出されると、この中の「真意」という文言が「行動」に差し替えられたため、叛乱に参加しなかった各部隊が混乱するという不祥事があった。この読み替えは青年将校に同情的であった香椎の指示によるものであったことが明らかになっている[注釈 1]。その後も警備命令を発して叛乱部隊を形式的に軍の統帥下に編入させたり、戒厳司令官に任ぜられた後も、28日まで天皇から維新の詔を引き出そうと試みるなど[1]、ぎりぎりまで武力鎮圧をためらっていた。
粛軍の一環として4月に待命処分となり、7月10日に予備役に編入される。後に二・二六事件の首謀者の一人であった磯部浅一は軍法会議において、叛乱を幇助したとして香椎ら高官15名を告発した。これが磯部らの公判に影響することはなかったが[注釈 2]、香椎自身は待命中に憲兵と法務官による取調を受け、予備役編入後には軍法会議への出頭を命ぜられた[2]。香椎によれば、叛乱部隊を編入させる警備命令は一種の計略であり、無血で解決するために必要なものだったという。真相解明に熱意を燃やす法務官の匂坂春平らの追及にもかかわらず、実際に叛乱を幇助したことを裏付ける証拠がなかったため、結局起訴されずに終わっている。
大戦末期の1945年2月、東京を去り福岡に帰郷。その後隠居生活を送り、1954年に死去した。満73歳没。
日露戦争にて敵の猛攻を受け、壕に迫る敵を見て将兵の間にいささか動揺の色が見えた。これを見た香椎は「将校は将校同士、下士は下士同士、兵は兵同士、この世の名残にセンズリをかけ。」と冗談を言った。すると将兵達の間に笑いが起こって緊張がほぐれ、香椎の指揮のもとこの危機を切り抜けたという。後年、戸山学校長時代に公演に訪れた中原八郎中佐から演壇の席でこのことを明かされ、会場は一気に爆笑の渦が沸いた。一方香椎は顔を真っ赤にしてうつむいていたという[3]。
大分県由布市湯布院町にある香椎荘はもともと香椎の別荘として建てられたもので、現在は温泉旅館として使用されている[13]。
軍職 | ||
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先代 伊丹喜和次 |
歩兵第46連隊長 第1代:1924年12月15日 - 1926年3月2日 |
次代 佐藤三郎 |
先代 山本鶴一 |
陸軍戸山学校長 第30代:1928年8月10日 - 1930年12月22日 |
次代 渋谷伊之彦 |
先代 植田謙吉 |
支那駐屯軍司令官 第13代:1930年12月22日 - 1932年2月29日 |
次代 中村孝太郎 |
先代 川島義之 |
教育総監部本部長 第16代:1932年5月26日 - 1934年 |
次代 林桂 |
先代 坂本政右衛門 |
第6師団長 第18代:1934年3月5日 - 1935年12月2日 |
次代 谷寿夫 |
先代 西義一 |
東京警備司令官 第12代:1935年12月2日 - 1936年4月2日 |
次代 岩越恒一 |