馬庭念流 まにわねんりゅう | |
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使用武器 | 日本刀、薙刀、槍 |
発生国 | 日本 |
発生年 | 戦国時代 |
創始者 | 樋口定次 |
源流 | 念流 |
派生流派 | 本間念流 |
主要技術 | 剣術、薙刀術、槍術 |
公式サイト | 念流宗家の公式サイト |
馬庭念流(まにわねんりゅう)は、樋口家第17代当主・樋口定次が友松氏宗より学んだ念流を元に確立した、剣術を中心に長刀術(薙刀術)、槍術も伝える古武道の流派である。
樋口家に伝わる家系によると、相馬四郎義元入道慈恩が念流を生み出した人物とされる。天正の頃、念流7世の眼医友松偽庵が中国地方から上州多胡郡馬庭村(現、群馬県高崎市吉井町馬庭)を訪れ、樋口定次に剣法を教えたところ、定次は念流を体得し念流8世を継いだ[1]。念流中興の祖であり、馬庭村に伝わる念流という意味で、馬庭念流とよばれた[1]。群馬県下に門人が多く、赤堀村本間仙五郎は永代免許を許され、馬庭念流からの派生で本間念流を呼称したという[1]。
馬庭念流樋口家が行った奉納額は、1797年(寛政9年)から1857年(安政4年)までに14件で、地元上州から江戸・鎌倉、金刀比羅宮にまで拡大しており、馬庭念流の盛行を顕著に示している[2]。また、1823年(文政6年)4月、伊香保温泉の鎮守伊香保神社の奉納額掲額をめぐって、北辰一刀流の千葉周作と馬庭念流一門との間にあわや大乱闘という騒動(伊香保神社掲額事件)が勃発、西原好和が『伊香保額論』を執筆し、これを曲亭馬琴が『兎園小説』に収録したため、馬庭念流の名前が世に知られることになった[2]。
木刀を使用する形稽古のほか、ヘッドギアのような独特の防具を着用し、袋竹刀で試合稽古を行う。防具は門弟が自作している[3]。現在は形稽古が基本であり、体作りに10数年、表五本の初期の習得だけで5 - 6年、長刀や裏で10数年、組や槍までとなると20年以上の年月が必要とされる[4]。
坂口安吾は『馬庭念流のこと』で、「24代もうちつづく伝統の家なら自然豪族風や教祖風になりそうなものだが、そういう風がミジンもなくて、しかも今日も尚伝統をつたえているところがすばらしい」「「無構え」というヘッピリ腰が面白い。しかしよくよく見ると恐しい構えである。百メートル走者の疾走中の瞬間写真のような体形が基本になっている。空中を走る姿を地上に置いたのが無構えで、したがって、いきなり飛びだすに一番都合のよい体形だ。竹刀は横にかまえてブラブラと足とともにハズミをつけているが、力は常に後ろ足にある、斬りこむ速力と万能の攻防一体の攻撃の剣法である。スキは無いが、あえてスキを見せることで相手を誘う。常に真を狙う。完全に実戦から生れて育ったままの剣法で、お体裁というものが全く見られない」と賞賛する。矢留術などは現在は行われていない[5]。
高崎市の重要無形文化財に指定されている(1999年(平成3年)1月23日指定)[6]ほか、「馬庭念流道場及び関係文書」が群馬県指定史跡となっている[7]。
馬庭念流の形として、以下のような形が挙げられている[8]。「表五本」から始まり、動きの激しい「裏三本」、長尺物の「長刀五本」「槍五本」を学ぶほか、念流独特の業である「抜け」と「見切り」を学ぶ「組十本」がある[9]。
馬庭念流道場 | |
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情報 | |
用途 | 武道場 |
竣工 | 慶応3年(1867年) |
所在地 |
〒370-2104 高崎市吉井町馬庭80 |
座標 | 北緯36度15分48.7秒 東経139度00分25.1秒 / 北緯36.263528度 東経139.006972度座標: 北緯36度15分48.7秒 東経139度00分25.1秒 / 北緯36.263528度 東経139.006972度 |
文化財 | 群馬県指定史跡 |
指定・登録等日 | 1956年(昭和31年)6月20日 |
馬庭念流道場は、長屋門の東側を土間の物置、西側を道場とした建築である。切妻造・瓦葺で、桁行13間(24.7 m)梁間3間(5.7 m)の規模である[10]。本建物は「俲士館」と称し、北側の道場入口上部に掲げられた額の刻銘から慶応3年(1867年)の建築であることが分かる[10][11]。