骨咄葉護(呉音:こちとちようこ、漢音:こつとつようこ、拼音:Gŭduō yèhù、? - 742年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。姓は阿史那氏、名は不明。骨咄葉護(クトゥ・ヤブグ)[1]というのは称号・官職名である。
開元22年(734年)、毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒殺されたので、国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。しかし、その7年後に骨咄葉護は伊然可汗を殺し[2]、代わりにその弟である登利可汗を立てたが、登利可汗もまた左殺(判闕特勤[3])によって殺されてしまう。そこで骨咄葉護は自ら立って可汗となる。
天宝(742年 - 756年)の初め、東突厥内の大勢力である回紇(ウイグル)・葛邏禄(カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)の3部族は一斉蜂起して骨咄葉護を攻め殺し、抜悉蜜の族長を推して頡跌伊施可汗(イルティリシュ・カガン)[4]とした。