高千穂 | |
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終末公試運転中の高千穂[1] | |
基本情報 | |
建造所 | アームストロング社ロー・ウォーカー造船所[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦[3](防護巡洋艦[4]) |
艦歴 | |
発注 | 1884年3月22日契約[5] |
起工 | 1884年3月22日[6]、または4月10日[4] |
進水 | 1885年5月16日[6][7][4] |
竣工 | 1886年3月26日[4] |
最期 | 1914年10月18日沈没[6] |
除籍 | 1914年10月29日[8] |
要目 | |
排水量 |
3,700英トン[9] または3,759英トン[10] 1894年6月時:3,709英トン[11] |
垂線間長 | 300 ft 0 in (91.44 m)[12] |
最大幅 |
46 ft 2 in (14.07 m)[12] または46 ft 0 in (14.02 m)[10] |
吃水 |
18 ft 7 in (5.66 m)[10] または平均:20 ft 3 in (6.17 m)[12] |
ボイラー | 低円缶 片面3基、両面3基[13] |
主機 | 横置2段2気筒レシプロ 2基[14] |
推進 | 2軸[10][14] |
出力 |
7,600馬力[10] または7,604ihp[14] 公試:5,715馬力[9] |
速力 |
18.5ノット[10] 公試:18.0ノット[9]、または18.618ノット[15] |
燃料 |
石炭:800トン[13] 1904年:石炭813トン[16][9] |
乗員 | 1886年1月定員:393名[17] |
兵装 |
克式 35口径26cm単装砲2基(後に安式40口径もしくは45口径15.2cm単装速射砲2基に換装) 克式35口径15cm単装砲6基(後に安式40口径15.2cm単装速射砲6基に換装) オチキス 43口径4.7cm単装機砲6基 25mm4連装ノルデンフェルト砲10基40門 11mm10連装ノルデンフェルト砲4基40門 35.6cm水上魚雷発射管単装4門 |
装甲 |
水平:平坦部51mm 傾斜部76mm[要出典] 甲板:3in(76.2mm) - 2in(50.8mm)[18] 砲盾:1.5in(38.1mm)[18] 司令塔:1.5in(38.1mm)[18] |
その他 | 船材:鋼[10] |
高千穂(たかちほ)は[19]、日本海軍の二等巡洋艦[3]。 艦種としては防護巡洋艦になる[4]。 艦名は天孫降臨の地とされている宮崎県の「高千穂峰」にちなんで名づけられた[10]。 第一次世界大戦における青島攻略戦従軍中の1914年(大正3年)10月18日未明、膠州湾においてドイツ帝国海軍水雷艇(小型駆逐艦 SMS-S90)[20]の魚雷攻撃を受け、沈没した[21]。
1884年(明治17年)3月22日(または4月10日[4])、本艦および「浪速」はイギリス、ニューカッスルのアームストロング社のロー・ウォーカー造船所で起工[10]。3月27日、日本海軍はイギリスで建造中の軍艦2隻を、「浪速」および「高千穂」と命名する[19]。 1885年(明治18年)5月16日、「高千穂」は進水[10]。 5月26日、2隻(浪速、高千穂)は二等艦と定められる[22]。 1886年(明治19年)3月26日に竣工した[4]。
日本に回航され、同年7月3日午前11時、横浜港に到着した[23]。 同年11月29日、明治天皇および皇后(昭憲皇太后)は横浜港で「浪速」に乗艦、横須賀港に行幸する[24][25]。 帰路の天皇・皇后は「高千穂」に乗艦し、横須賀から横浜に戻った[25]。
1890年(明治23年)3月下旬から4月上旬にかけて陸海軍連合大演習が実施され、「高千穂」は明治天皇の御召艦に指定される[26][27]。 4月18日、天皇は神戸港で「高千穂」に乗艦[28]、 観艦式に臨んだ[29][30]。 4月21日、天皇は「高千穂」から呉軍港に上陸(呉鎮守府臨幸)[31][32][33]。 翌日海軍兵学校(江田島)を見学後、御召艦「高千穂」(天皇座乗)は4月23日に同地を出港[34][33]。 4月25日午前中に関門海峡を通過[35]、午後5時50分に佐世保鎮守府到着[36]。26日、「高千穂」は佐世保を出港、神戸移動後の4月28日朝に天皇は「高千穂」を下艦した[33]。
同年8月23日、本艦は佐世保鎮守府所管の第一種と定められた[37]。
1894年(明治27年)6月から翌月にかけて、「高千穂」はハワイ革命に伴い邦人保護のためホノルルに派遣された。
日清戦争では、黄海海戦、大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加する[10]。
1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[38]。 該当する9隻(浪速、高千穂、厳島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳)が二等巡洋艦に類別された[39][3]。
義和団の乱では1900年(明治33年)8月から10月にかけて廈門警備に従事した。
1904年(明治37年)1月に呉工廠で機雷投下器を装備、日露戦争に際しては仁川沖海戦・蔚山沖海戦・日本海海戦等に参加[10]。元山沖で機雷敷設に従事した。日本海海戦における第四戦隊(浪速、高千穂、明石、新高)はバルチック艦隊と交戦、他艦に若干の被害があるも「高千穂」に損害はなかった[40]。
1911年(明治44年)横須賀海軍工廠で後部15cm砲を撤去し、機雷格納所を艦尾に設置した[41]。 1912年(明治45年)年8月28日、艦艇類別の改訂により、二等海防艦(7,000トン未満)に類別変更された[42][43]。 旧式化していた本艦は海軍水雷学校の練習艦として使用されていた[44]。
1914年1月に福徳岡ノ場で噴火が始まって新島が形成され、2月に「高千穂」が現地調査に派遣された[45]。
1914年(大正3年)7月28日、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発[46]。 8月16日附で高千穂は第二艦隊に編入され、予備艦だったため海防艦「満州」等より人員を補充した[44]。 老朽化により、速力15ノット以上の発揮は難しかったという[44]。
8月23日、日本はドイツ帝国に対して宣戦を布告、第一次世界大戦に参戦した[47]。 8月27日、第二艦隊司令長官加藤定吉中将は膠州湾の封鎖を宣言する[48] (青島攻略戦)[49]。
10月17日夜、「高千穂」は膠州湾租借地湾外で海上封鎖任務に従事していた[21]。 当時の本艦は、駆逐艦に補給するための武器弾薬を搭載していた[50]。 同時刻、ドイツ帝国海軍東洋艦隊に所属する水雷艇(小型駆逐艦)のS90は上海への脱出命令を受け、日本側の封鎖線を突破しつつあった[21]。 10月18日午前0時15分、S90は「高千穂」(速力8から10ノット航行中)を発見して距離300mまで接近、魚雷3本を発射する[21]。 魚雷2本が命中、補給用の魚雷が誘爆し、「高千穂」は轟沈した[10][21]。 伊東(高千穂艦長)以下271名(下士官兵・傭人合計257名)が戦死、生存者は3名(沈没時不在だった10名を除く)[51][52]。 大正天皇への奏上によれば、生存者12名[53]。 巡洋艦「利根」(第二水雷戦隊旗艦)、砲艦「嵯峨」等が救援に従事し、遺体は特設砲艦「朝鮮丸」に収容されて佐世保に帰投した[51]。
青島周辺に展開していた海軍陸戦隊重砲隊(指揮官正木義太中佐)はS90の包囲網脱出を報告していたが、この情報は生かされなかったという[54]。 「高千穂」撃沈の戦果を挙げたS90は、同日午前6時に山東省沿岸石血所[55](黄河河口)で座礁放棄され、乗組員61名は、当時はまだ中立国の中華民国警察により武装解除された[51]。
内山小二郎侍従武官長と島村速雄軍令部部長より高千穂爆沈の報告を受けた天皇は「しつみし ふねはともあれ うたかたと きえしたけをそ あはれなりける」「いへとたのむふねはしつみていきおこる たけをの心いかにとそおもふ」の和歌を詠んだ[56]。 同年10月29日、高千穂は軍艦籍[8]、 および艦艇類別等級表より削除された[57][58]。 「高千穂」は日本海軍の軍艦の中で、敵との交戦で撃沈された最初の艦でもあった[51]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。