高雄 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀造船所[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 巡洋艦[2]、または海防艦[3] |
建造費 | 665,489円[4] |
母港 | 横須賀(横須賀鎮守府[5]) |
艦歴 | |
発注 | 1884年5月26日製造令達[6] |
起工 | 1886年10月30日[1] |
進水 | 1888年10月15日[7][注釈 1] |
竣工 | 1889年11月16日[1] |
除籍 | 1911年4月1日[1][8] |
その後 | 1912年3月27日売却引渡[9] |
要目(竣工時) | |
排水量 |
計画:1,767英トン[10] 竣工時:1,978.3381英トン[11] |
長さ | 70m[10][11] |
幅 | 10.500m[10][11] |
深さ | 龍骨上部から上甲板まで:20 ft 7 in (6.274 m)[4][注釈 2]。 |
吃水 |
計画:4.000m[10] 竣工時:4.400m[11] |
ボイラー | 低円缶 5基[12] |
主機 | 横置直接合2段2気筒レシプロ 2基[12] |
推進 | 2軸 |
出力 |
計画:2,300馬力(強圧通風全力)[13] 竣工時公試:2,507.4馬力[11] |
速力 |
計画:15ノット[14] 公試:13.81ノット[11][13] |
燃料 |
石炭 190英トン[4] 1904年:石炭 270トン[15][16] |
乗員 |
計画乗員:255名[14] 竣工時定員:263名[17] |
兵装 |
35口径15cm克(クルップ)砲[18] 4門[19] 12cm克(クルップ)砲 1門[19] 一伊四連諾典砲 6基[20] 朱式水上発射管 2門[18] 1インチ二連諾典砲 2基[18] シーメンス式探照灯 2基[18] |
高雄(たかお、旧仮名:たかを[1])は、日本海軍の巡洋艦[21]。 艦名は京都府の高雄山にちなむ[1]。 日本海軍艦船名としては運送船「高雄丸」に続いて2代目[1]。
主船局造船課が計画し、日本国内で初めて建造された巡洋艦[21] (艦種を海防艦とする文献もある[3][13])。
船体は「愛宕」と同様の鋼骨鉄皮で、日本海軍艦艇で初めて二重底を採用した[21]。
進水時の計画要領は『横須賀海軍船廠史』によると以下の通り。
竣工時の要目は『横須賀海軍船廠史』によると
主要寸法、排水量は出典により違いがあり、主な値は以下の通り。
艦橋は前後2箇所設けられた[18]。 後艦橋が正艦橋であり、前艦橋は見張り台的な補助の用途だった[18]。
端艇は6隻(30ftピンネース、28ftスチームカッター、28ftカッター、27ftライフボート、27ftギグ、14ftギグ[23])の計画だった。 1889年6月20日に端艇2隻(カッター1隻、ジョリーボート1隻[24])の増備が認められた[25]。現状では乗員の6割しか乗艇できず、運用に支障があった[24]。
ボイラーは低円缶5基で蒸気圧力は70ポンド/平方インチ[13][12]。 缶室は2区画あり[26]、 前部区画にボイラー2基、後部区画に3基を搭載[27]、 日本海軍で初めて缶室密閉強圧通風装置を装備し、以降の艦艇では標準とされた[13]。
主機は横置直接合2段2気筒レシプロ2基[12]。 気筒の直径は高圧筒が35 in (890 mm)、低圧筒が69 in (1,800 mm)、行程32 in (810 mm)[28]。 クランクなど部品の一部を鋼材(従来は鉄)とした[29]。 またクランク部分に注油するために遠心注油装置を装備した[29]。 機械室も前後2区画(前後を分ける隔壁の中央部に水密扉が設けてあるため厳密な区画では無い)に分かれ[26]、 前部に右舷主機、後部に左舷主機を搭載した[27]。
復水器は主機から全く独立した真鍮製円筒形(2基[28])で、送水も主機から独立した遠心ポンプが装備された[29]。
推進器は楕円形状の3翼で翼断面は少しの凹状をしていた[13]。 直径は11 ft 6 in (3,510 mm)、翼の形状のために前縁と後縁ではピッチが同一では無いが平均で16 ft 6 in (5,030 mm)だった[13]。 または青銅製の3翼グリフィス型で直径12 ft 5+5⁄8 in (3,800 mm)、ピッチ17 ft 5+7⁄8 in (5,331 mm)[28]。
計画速力は強圧通風全力で15ノット[13]。 1887年9月に作成された文書内では計画速力を14ノットとしている[30]。
計画では木製2檣[31]スクーナー型[32]で 帆面積6,949平方フィートだったが[4]、 檣楼上に砲と探照灯を装備するために[33] 建造中に下部が鋼鉄製[34] のミリタリー・マストに変更された[35]。 前後マスト下部にはそれぞれ上下2箇所にファイティング・トップがあり、上部のそれには2連諾典砲、下部のそれには探照灯が装備された[18]。 また帆装は予備となった[21]。
15cmクルップ砲を舷側の前後にスポンソンを設けて各1門ずつ計4門[19][36]、 12cmクルップ砲を艦尾に1門装備した[19]。 砲架は従来のような両舷兼用のために移動する形式では無く、その場で旋回する形式になった[18]。
1インチ四連諾典砲は甲板上の左右舷側に前後各1基、合計4基の計画だったが、 前部諾典砲の旋回角度は後方へ40度、後部は前方に44度、後方に66度で舷側中央部の射界が狭かった[20]。 また後部諾典砲は後部12cm砲の射界に入っており[20]、 そのため位置を変更して射角を120度(もしくは110度[20])から140度に広げ、 前部諾典砲は移設場所が無いため現状のまま、そして中部の左右舷に各1基、計2基を増設[20]、 1インチ4連諾典砲は片舷3基ずつ計6門となった[37]。
また1インチ2連諾典砲を前後マストの上部ファイティング・トップに1基ずつ、計2基を装備した[37][18]。
国産艦艇として初めて魚雷発射管を装備した[26]。 魚雷発射管は舷側中央からやや後方の中甲板に左右舷各1基(1門)、朱式水上発射管を装備した[18][27]。 当初、魚雷発射管は舷側のボールジョイントから550mm舷外に飛び出していた[38]。1889年6月20日に舷側から飛び出さないようにする改造が認許された[39]。
1889年(明治22年)5月15日にマスト上に探照灯各1基計2基の装備が認められた[40]。 シーメンス式探照灯をマスト下方に設けられた下段のファイティング・トップに装備した[18]。 発電機は中甲板に装備された[41]。
1889年12月に礼砲用として短4ポンド砲2門の装備が認められた[42]。
1883年(明治16年)
10月23日、横須賀造船所で設計中の艦の機関部は、当時職工が手空きのために直ちに製造に着手したいと上申があり[43]、
10月24日に巡洋鉄艦1隻の機関部製造を着手するよう海軍省から達があった[44][45]。
1884年(明治17年)4月17日に製造図面と目録の調製、製造費額の調査が横須賀造船所に命令され、4月26日にこれら書類と艦の雛形を海軍省へ提出[6]、
製造費は概算で船体400,000円、機械166,000円、ボイラー95,500円の計661,500円と見積もられた[46]。
5月26日に製造費630,000円を目途に建造するよう達があった[6]。
6月5日、横須賀造船所で建造予定の巡洋鉄艦は
1886年(明治19年)10月30日起工[1]、 1888年(明治21年)10月15日進水[7]。 進水当日は皇后が臨席、皇后は11時30分に横浜から乗船した船で横須賀軍港に到着、陸上で休憩後の午後0時30分に進水準備完了の旨が伝えられ、命名式場に移動した[10]。 同所で海軍大臣により明治皇后の命令書が読み上げられて本艦は「高雄艦(高雄[7])」と命名され、造船部長が支紐を切断、船体が船台を滑り降りた[10]。
皇后は午後2時30分に横須賀を出発し帰路についた[10]。 なお、1930年(昭和5年)に進水した一等巡洋艦「高雄」でも皇后が行啓となった[26]。 1889年(明治22年)4月18日に横須賀鎮守府所轄とされた[5]。 11月16日に艦は造船部から高雄艦長山本権兵衛に引き渡された[48] (竣工[1])。 この時点で残工事があり[49]、 残工事は翌1890年(明治23年)9月に完了した[50]。
1889年(明治22年)11月27日に横須賀鎮守府の警備艦に指定[51]、 12月28日常備艦隊へ編入された[52]。
1890年(明治23年)8月23日に第一種と定められた。
1893年(明治26年)11月に第二検査実施の時期になり横須賀造船所で調査した所、改造費898円、修理費4761.90円で改造修理を行えば第二検査の必要は無いと結論され、その旨を同11月29日に上申、12月4日に認許された[53]。
1894年(明治27年)7月13日、常備艦隊所属の「高雄」「大和」「葛城」「天龍」「愛宕」と呉鎮守府警備艦「赤城」の6隻で臨時に警備艦隊が編成された[54]。 日清戦争では、大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加。
1895年(明治28年)7月29日、横須賀鎮守府警備艦の役務を解かれた[55]。 9月14日第一予備艦とされた[56]。 11月15日、横須賀第1予備艦の「高雄」は常備艦隊に編入された[57]。
1898年(明治31年)3月21日、三等海防艦に類別された。
義和団の乱では1900年(明治33年)8月より翌年11月にかけて、廈門・上海警備に従事した。
日露戦争に際しては、津軽海峡・仁川港警備に従事し、日本海海戦に参加した。
1911年(明治44年)4月1日除籍[1][8] 艦艇類別等級表からも削除された[58]。 同年12月21日売却訓令[59]。 船体は1912年(明治45年)3月27日に買受人に引き渡された[9]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
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強圧通風全力 | 94rpm | 2,503馬力 または2,542馬力 |
13.81ノット | 失脚14.862% | [13] | |||
1,778英トン | 1,512馬力 | 11.5ノット | 日露戦争直前の調査による | [16] |