おみむら 麻績村 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方(甲信越地方) | ||||
都道府県 | 長野県 | ||||
郡 | 東筑摩郡 | ||||
市町村コード | 20446-3 | ||||
法人番号 | 1000020204463 | ||||
面積 |
34.38km2 | ||||
総人口 |
2,325人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 67.6人/km2 | ||||
隣接自治体 | 長野市、千曲市、東筑摩郡筑北村、生坂村 | ||||
村の木 | コブシ | ||||
村の花 | カタクリ | ||||
村の鳥 | カッコウ | ||||
麻績村役場 | |||||
村長 | 塚原勝幸 | ||||
所在地 |
〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻3837 北緯36度27分22秒 東経138度02分43秒 / 北緯36.45608度 東経138.04519度座標: 北緯36度27分22秒 東経138度02分43秒 / 北緯36.45608度 東経138.04519度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
長野県のほぼ中央(中信)の筑摩山地の北寄りに位置する高原の村である[1]。村は山岳地帯にあり、北端の聖高原、南端の四阿屋山、東端の一本松峠等はいずれも1,000mを超す地点となっている[1]。
江戸時代には松本藩預かりの天領で、北国脇往還の宿場町(麻績宿)であった[1]。
村内には聖山(ひじりやま)があり、越後の高僧である聖がこの山を修行山としたことが名前の由来であり、その後もいくつかの寺院が建立された。
候補者名 | 当落 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 |
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百瀬智之 | 当 | 38 | 無所属 | 元 | 33,608票 |
小林文 | 当 | 45 | 無所属 | 新 | 33,031票 |
青木崇 | 落 | 31 | 無所属 | 新 | 23,786票 |
下沢順一郎 | 落 | 62 | 無所属 | 元 | 22,973票 |
候補者名 | 当落 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 |
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中川宏昌 | 当 | 48 | 公明党 | 現 | 14,121票 |
百瀬智之 | 当 | 36 | 無所属 | 現 | 12,647票 |
中川博司 | 当 | 60 | 無所属 | 元 | 12,341票 |
本郷一彦 | 当 | 72 | 自由民主党 | 現 | 11,957票 |
両角友成 | 当 | 66 | 日本共産党 | 現 | 11,630票 |
清沢英男 | 当 | 69 | 自由民主党 | 現 | 10,793票 |
萩原清 | 当 | 68 | 自由民主党 | 現 | 9,447票 |
下沢順一郎 | 落 | 59 | 国民民主党 | 現 | 7,337票 |
小金沢昭秀 | 落 | 62 | 日本維新の会 | 新 | 2,013票 |
当落 | 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 重複 |
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当 | 下条みつ | 65 | 立憲民主党 | 前 | 101,391票 | ○ |
比当 | 務台俊介 | 65 | 自由民主党 | 前 | 68,958票 | ○ |
手塚大輔 | 38 | 日本維新の会 | 新 | 43,026票 | ○ |
麻績村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 麻績村の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 麻績村
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
麻績村(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
1962年地方自治体としては例をみない地上権方式で別荘地の開発・分譲を始めた。村と賃貸借契約を締結して固定資産税の代わりに地代を納入する。閑静な高原を存続するため立木はなるべく伐採しないで別荘を建てることとした。聖山東方の聖高原の村有地300ha余りで、現在約1700区画(内別荘建築は約400件)ある。全域に道路、水道、電気、電話の引き込みがあり、別荘地の管理は株式会社聖高原管理センターが行っている。
平成の大合併が日本全国で進む中、麻績村も同郡内の「筑北地方」と呼ばれる本城村・坂北村・坂井村の近隣三村(現:筑北村)との対等合併の協議が進められていた。そして2002年には任意合併協議会が始まり、足掛け2年以上をかけた協議がほぼ終了し、後は調印するだけとなっていた。
ところが調印を翌月に控えた2005年9月12日に麻績村役場で記者会見が開かれ、麻績村長の依田政人(当時)により法定協議会からの離脱が表明された。この時の内容については麻績村公式サイト内の「村からのお知らせ」で公開されている。突然の合併離脱の発表に対し、三村だけでなく麻績村内でも大きな波紋が広がり、有志による質問状も出されている。(前述のサイト内で公開)
この決断の背景には、当時県内の市町村で三番目に低い公債費比率(8.6%)と健全な財政を維持していた麻績村と三村での財政格差による合併後の財政面での負担の可能性もさることながら、本城村が事前協議を経ないまま合併前の駆け込み事業を進めてしまったことが合併離脱の決定的要因とされている(読売新聞の記事)。また合併後の町名について、麻績村が望む「聖町」が住民アンケートで「筑北町」に僅かに及ばず、共に過半数に達していないことから二案による再アンケートを求めるも、三村の賛成多数で「筑北町」に決定したことも大きな影響を与えている。
尚、麻績村も含めて四村での合併が成立した場合には「町」として発足する予定だったが、最も人口の多い麻績村(約3千人)の離脱により、町制施行に関する人口要件(長野県の場合、八千人以上)を満たすことが出来なくなり、結局三村合併後(約六千人)も「村」のままとなってしまうことになった。