黄文雄 | |
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凱達格蘭大道にて(2014年) | |
プロフィール | |
出生: | 1937年10月2日(87歳) |
出身地: | 日本統治下台湾 新竹州 |
職業: | 政治家・独立運動家・人権活動家 |
各種表記 | |
繁体字: | 黃 文雄 |
簡体字: | 黄 文雄 |
拼音: | Huáng Wénxióng |
注音符号: | ㄏㄨㄤˊ ㄨㄣˊ ㄒㄩㄥˊ |
和名表記: | こう ぶんゆう |
発音転記: | フアン ウェンション |
英語名: | Peter Huang |
黄 文雄(こう ぶんゆう、注音: ㄏㄨㄤˊ ㄨㄣˊ ㄒㄩㄥˊ, 拼音: 、1937年10月2日 - )は、台湾の政治家・独立運動家・人権活動家。英語名はPeter Huang。1970年にアメリカで蔣経国暗殺未遂事件を起こした。
日本在住の評論家黄文雄と生年・政治的な主張が似ており、しかも双方とも台湾独立建国連盟の関係者であるため、混同されることも多いが、まったくの別人である。
1937年(昭和12年)、日本統治下の台湾の新竹州生まれ。国立政治大学新聞学科卒業[1]。1964年(民国53年)、アメリカ合衆国のピッツバーグ大学の奨学金を獲得したのを機に渡米、コーネル大学社会学研究所で博士号取得に励むかたわら、ベトナム反戦運動や学生運動、フェミニズム運動などに参加[1]、さらに全米台湾独立連盟(UFAI)、台湾独立連盟(WUFI)に加わって、台湾独立に向けた活動を行った。
1970年、アメリカ留学中の32歳のとき、中華民国総統・蔣介石の息子である蔣経国(当時、行政院副院長。のちに総統)の訪米予定が発表されると、台湾の独立と自由を目的として蔣の暗殺を妹の夫の鄭自才、妹の黄晴美らと計画する[2]。同年4月24日、訪米した蔣経国をニューヨークのプラザホテルの入口で拳銃で狙撃したが失敗、その場でニューヨーク市警察に逮捕された[2]。その後、保釈中に逃亡し、1996年まで20年以上にわたり地下に潜伏した。この暗殺未遂事件は台湾独立派からは「義挙」として賞賛されることが多い一方で、中華人民共和国政府など台湾独立に対して批判的な勢力からは「台湾独立派がテロリストにすぎない」証拠であると非難されることが多い。なお、台湾ではこの事件は起きた日付をとって「四二四刺蔣案」と呼ばれている。
1996年(民国85年)4月、台湾へ帰国し、1998年(民国87年)1月には台湾人権促進会(略称:台権会)の第8代会長に就任し[3]、2000年(民国89年)には陳水扁政権のもとで総統府国策顧問も務めた。