佐藤幸德(1893年3月5日—1959年2月26日)是山形縣出身的日本陸軍軍人。他經由陸軍大學校第33期、陸軍士官學校第25期畢業,最終階級為陸軍中將。
張鼓峰事件期間,他以步兵第75聯隊長作戰。諾門罕戰役其間,已升為少將的佐藤於諾門罕戰役中隸屬小松原道太郎的部隊。1943年,第31師團組建,佐藤成為師團長。1944年的英帕爾戰役期間,第31師團佔領了柯希馬後,佐藤幸德在評估了整體戰力之後,認為繼續作戰下去只是徒增無謂的傷亡,5月底,佐藤幸德決定違抗牟田口廉也司令官的命令,通令第31師團全軍撤退。1959年因病去世。[1]
- 1913年(大正2年)5月 从陸軍士官学校卒業(25期)
- 1917年(大正6年)8月 升任步兵中尉
- 1921年(大正10年)11月 从陸軍大學校卒業(33期)
- 1922年(大正11年)6月 出征
- 1923年(大正12年)11月 调至参謀本部
- 1924年(大正13年)8月 第7师团参謀
- 1927年(昭和2年)7月 熊本陸軍教導学校中隊長
- 1928年(昭和3年)8月 升任步兵少校
- 1929年(昭和4年)3月 技術本部附
- 1930年(昭和5年)3月 参謀本部部員
- 1931年(昭和6年)11月 步兵第18聯隊大隊長
- 1932年(昭和7年)12月 升任步兵中校,调至步兵第11联队
- 1934年(昭和9年)8月 第6师团参謀
- 1937年(昭和12年)8月 步兵上校
- 1938年(昭和13年)12月 第8国境守備隊第2地区隊長
- 1939年(昭和14年)8月 少将・第23步兵团長
- 1941年(昭和16年)3月 第54师团司令部附
- 8月 第54师团兵務部長
- 10月 第67独立步兵团長
- 1942年(昭和17年)12月 任中将
- 1943年(昭和18年)3月 就任第31师团長 (第15軍隷下)参加英帕尔战役
- 1944年(昭和19年)7月 调至緬甸方面軍 (日本陸軍)司令部
- 1945年(昭和20年)5月 调至東北軍管区司令部
いずれも佐藤について触れられている。
- ^ 土門(1979年)、99頁。
- 児島襄「悲劇のインパール作戦」《太平洋戦争 下巻》P119-172 中公文庫、1974年。ISBN 4-1220-0117-X
- 山下實六(大阪回生病院(页面存档备份,存于互联网档案馆))「インパール作戦における烈兵団長の精神鑑定」《九州神経精神医学》24巻1号P151-157 1978年4月
- 1977年11月26日、九州大学精神科同門会において講演した際の講演原稿
- 土門周平 「佐藤幸徳と宮崎繁三郎 インパール作戦間の冷戦」《歴史と人物》「増刊 秘録・太平洋戦争」 中央公論社、1979年。