第2軍為大日本帝國陸軍中之一軍。編制於甲午戰爭、日俄戰爭、中國抗日戰爭及太平洋戰爭之時。
始編制於甲午戰爭時之1894年(明治27年)9月25日,戰後1895年5月31日始解散。
- 司令官 大山巖 大將(1894年9月25日 - 1895年5月26日)
- 參謀長 井上光 大佐(1894年10月1日 - 1895年5月14日)
- 砲兵部長 黒瀬義門 砲兵大佐
- 工兵部長 勝田四方蔵 工兵大佐
- 監督部長 中村宗助 一等監督
- 軍醫部長 土岐頼徳 一等軍醫正
- 參謀副長 伊地知幸介 砲兵中佐(1894年9月24日 - 1896年5月)
- 參謀
- 高級副官 山田保永 歩兵中佐
始編制於日俄戰争時之1904年(明治37年)3月6日,戰後1906年1月12日始解散。
- 司令官 奥保鞏 大將(1904年3月6日 -)
- 参謀長
- 落合豊三郎 少將(1904年3月6日 -)
- 大迫尚道 少將(1904年9月12日 - 1906年1月18日)
- 砲兵部長 税所篤文 少將
- 工兵部長 阿部貞次郎 大佐
- 經理部長 片山中行 主計監
- 軍醫部長 森林太郎 軍醫監
- 參謀副長
- 由比光衛 中佐(1904年3月6日 -)
- 山梨半造 中佐(1905年1月13日 - 7月18日)
- 鈴木荘六 中佐(1905年9月27日 - 1906年1月)
- 諜報參謀
- 作戰參謀
- 兵站參謀 小野寺重太郎 少佐
- 參謀
- 兵站監
- 楠瀨幸彥 少將(1904年3月27日 - 4月)
- 大谷喜久蔵 少將(1904年4月18日 -)
- 竹中安太郎 預備役大佐(1905年4月8日 - 8月10日)
- 兵站參謀長 吉田恕 中佐(1904年3月6日 - 1905年9月14日)
- 高級副官 河村正彦 少佐
- 管理部長 橘周太 少佐
中國抗日戰爭爆發後之1937年(昭和12年)8月23日編制成軍,編入於新設立的北支那方面軍之作戰序列。主要之作戰區域在華北地區。1938年12月15日廢軍。自1937年8月下旬建立至1938年7月下旬為止,該軍總共戰死6,199名,戰傷20,296名[1]。
- 西尾寿造 中將(陸士14期:1937年8月26日 -)
- 東久邇宮稔彥王 中將(陸士20期:1938年4月30日 - 1939年1月4日)
- 鈴木率道 少將(陸士22期:1937年8月31日 -)
- 町尻量基 少將(陸士21期:1938年6月10日 -)
- 青木重誠 大佐(陸士25期:1938年11月21日 - 1939年1月4日)
- 青木重誠 大佐(陸士25期:1938年7月7日 - 11月21日)
中國抗日戰爭爆發後之1942年(昭和17年)7月4日編制成軍,編入於第1方面軍之作戰序列。主要之作戰區域在滿洲。1943年10月30日轉編至北澳大利亞第2方面軍之作戰序列。1945年6月30日成為南方軍直屬部隊至終戰。
- 通稱號:勢(いきおい)
- 編成時期:1942年7月4日
- 上級部隊:南方軍
- 最終位置:蘇拉威西島
- 上月良夫 中將(陸士21期:1942年7月1日 -)
- 七田一郎 中將(陸士20期:1943年5月28日 -)
- 豊嶋房太郎 中將(陸士22期:1943年10月29日 -)
- (代)岩松義雄 中將(陸士24期:1946年3月27日 - 1946年6月)
- 磯矢伍郎 大佐(陸士29期:1942年7月1日 - 1943年4月1日)
- 堀毛一麿 少將(陸士28期:1943年4月8日 - 10月23日)
- 藤塚止戈夫 少將(陸士27期:1943年10月29日 -)
- 欠員(1944年12月26日 - 1945年2月1日)
- 深堀游亀 少將(陸士28期:1945年2月1日 -)未赴任
- 今田新太郎 少將(陸士30期:1945年4月7日 -)未赴任
- 欠員(1945年5月24日 -)
- 吉田茂登彦 少將(陸士30期:1945年7月5日 -)
- 司令官 豊嶋房太郎 中將
- 參謀長 吉田茂登彦 少將
- 高級參謀 了戒次男 中佐
- 兵器部長 荒井武男 中佐
- 經理部長 井上米雄 主計大佐
- 軍醫部長 竹内文次 軍醫少将
- 法務部長 高橋和夫 法務大佐
- 情報班長 小森正夫 少佐
- 秦郁彦編《日本陸海軍総合事典》第2版、東京大學出版社、2005年。
- 外山操・森松俊夫編著《帝国陸軍編制総覧》芙蓉書房出版、1987年。
- ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11112087000、第2軍作戦経過の概要 昭和12年8月下旬~13年7月中旬(防衛省防衛研究所)