人物情報 | |
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生誕 |
1860年1月30日(安政7年1月8日) 武蔵国江戸本所亀沢(現・東京都墨田区) |
死没 |
1935年1月17日(74歳没) 台北州台北市(現・ 中華民国 台北市) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
東京大学理学部 フライブルク大学 |
配偶者 | 貞子(箕作麟祥長女) |
子供 | きよ(長女・寺尾新妻)、欣一(長男) |
学問 | |
研究分野 | 生物学(動物学、水産学) |
研究機関 |
東京大学理学部→帝国大学理科大学 帝国大学農科大学→東京帝国大学農科大学→東京帝国大学農学部 帝国博物館→東京帝室博物館 |
学位 |
哲学博士(フライブルク大学・1889年) 理学博士(日本・1891年) |
称号 | 東京帝国大学名誉教授(1924年) |
主な業績 | 進化論の啓蒙・普及活動 |
主要な作品 |
『動物進化論』(1883年) 『進化新論』(1891年) 『動物学講義』(1913-1934年) |
影響を受けた人物 | エドワード・S・モース |
学会 | 帝国学士院、日本動物学会 |
石川 千代松(いしかわ ちよまつ、1860年1月30日(万延元年1月8日) - 1935年(昭和10年)1月17日[1])は、日本の動物学者。進化論を日本に紹介したことで知られる。
1909年には、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池でコアユの飼育に成功し[2] [リンク切れ]、全国の河川に放流する道を開いた。
遡って、ドイツ留学から帰国した1889年(明治22年)秋、帝国博物館学芸委員を兼務し、1900年からは天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。1907年頃、石川はハーゲンベックから上野動物園にじらふ(きりん)を求め、日本で初めて見られるようにした。後に、列車での輸送許可を得てなかったとされ、解雇された。石川は、「許可は得ていたのに、高額だったから責任をとらされた」と、親族に語った。じらふをきりんと名付けたくだりは、1928年アルス発行『日本児童文庫; 43 動物園』に、「これはじらふという動物です。きりんと名を付けるのは、あるいは当たらないかもしれませんが、あるアメリカ人の書いた漢書にも、そう書いてあったように覚えています」と記されている。
妻・貞子は箕作麟祥(箕作阮甫の孫)の長女である[12]。長女・きよは天文学者・寺尾寿の次男で動物学者の寺尾新に嫁した[13]。長男・欣一は、ジャーナリストとなり、父の恩師エドワード・S・モースの『日本その日その日』の翻訳・出版もした。欣一の妻・栄子は渡辺暢・達子夫妻の六女[13]。女優の東山千栄子は渡辺暢・達子夫妻の次女で栄子の姉すなわち欣一の義姉[13]。達子は寺尾寿の妹なので石川家は寺尾家と二重の姻戚関係で結ばれている[13]。 妹キクは鹿児島県士族の又木某に嫁いだ。その息子の又木亭三は現在の桃山学院の学友の野口男三郎(後に猟奇殺人の臀肉事件を起こす)を叔父である千代松の家に寄宿させた。孫に南博がいる。
(編注)重版・改版は「→」の右に記す。
公職 | ||
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先代 高嶺秀夫 帝国博物館天産部長 |
東京帝室博物館天産部長 1900年 - 1907年 帝国博物館天産部長心得 1898年 - 1900年 |
次代 (欠員→)三宅米吉 天産課長 |
先代 (新設) |
動物園監督 1901年 - 1907年 |
次代 黒川義太郎 主任 |
学職 | ||
先代 岩川友太郎 箕作佳吉 |
東京動物学会会頭 1913年 - 1914年 1893年 - 1894年 |
次代 五島清太郎 佐々木忠次郎 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
日本博物館協会理事長 1930年 - 1935年 |
次代 正木直彦 |
先代 大村仁太郎 |
獨逸学協会学校中学校長 1907年 |
次代 長井長義 |