なかた じょうじ 中田 譲治 | |
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プロフィール | |
愛称 | ジョージ |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・東京都[1][2] |
誕生日 | 4月22日 |
血液型 | A型[2] |
職業 | 声優、俳優 |
事務所 | 大沢事務所[3] |
公式サイト | 中田 譲治 – 大沢事務所 |
公称サイズ(時期不明)[5] | |
身長 / 体重 | 175[2][4] cm / 65 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1980年代 - |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーション |
デビュー作 | パイロット(『蒼き流星SPTレイズナー』)[要出典] |
俳優活動 | |
活動期間 | 1970年代 - |
ジャンル | テレビドラマ、映画 |
デビュー作 | 役名なし(『七人の刑事』)[要出典] |
中田 譲治(なかた じょうじ[注 1]、4月22日[1][2][3][7] - )は、日本の声優、俳優。東京都出身[1][2]。大沢事務所所属[3]。
声優としての代表作は、『巌窟王』(モンテ・クリスト伯爵)、『ケロロ軍曹』(ギロロ伍長)、「Fateシリーズ」(言峰綺礼)[4]。
桐朋学園演劇科卒業[1][8]。エヌ・エー・シー[1]、賢プロダクションを経て[9]、大沢事務所所属[3]。
高校生の頃は根暗であり、人とコミュニケーションを取ることに苦手意識があり、アルチュール・ランボー、坂口安吾を愛読しているような学生だった[10]。
高校卒業後は母1人、子1人の家庭であり、経済的に余裕があったわけではなかったため、就職して「親の面倒を見なければ」と考えていたという[10]。
学生時代は友達が少なかったと言い、大学入試(法学部)を公園で弁当を食べていて失念していた。そして、勉強が好きではなかったこと、演劇の世界がカッコよく見えたことから翌年には演劇科を受験したという[10][11]。芝居の経験はそれまでなかったという[10]。あの時、普通の大学に通っていれば、会社勤めをし、給料をくれる暮らしをし、定年で隠居していたかもしれないと語ってる[10]。
桐朋学園短期大学部で演劇を学び[10]、テレビの時代劇や刑事ドラマ、特撮ドラマなどでキャリアを積んだ[12]。養成所卒業後は、劇団に入団して演劇を続けていこうと考えていたが、劇団の試験に落ち、それをきっかけに気持ちが変わり劇団の道は断念[10]。知り合いに誘われて芸能プロダクションに所属、マスコミの仕事に進んだという[10]。
デビュー間もない頃の1979年にNHKの大河ドラマ『草燃える』の仁田忠常役で初レギュラーを獲得し[12][13]、フジテレビ系列で放送された『手錠をかけろ!』には二枚目の若手刑事・寺泉役でレギュラー出演した。1980年代からは強面の悪役俳優として活躍。チンピラ、ヤクザ、殺し屋、凶悪犯などの役をさまざまな作品で演じ、特撮ドラマでは悪の大幹部役を演じた。
その後舞台に一緒に出演していた野村道子に「譲治もよかったら声の仕事やってみない?」と声をかけられて賢プロダクションに所属[9][10]。このことについては2021年時点では野村に恩を感じているという[10]。賢プロ所属後、しばらくは内海賢二の仕事に付いて回っていた[10]。内海が午前中に映画予告ナレーション、次にCMナレーション、その後はアニメの収録、最後に外画の吹き替えをして、物凄い量の仕事をしていたことを間近で見られたこと、良い車に乗って、お洒落な服でスターの雰囲気で声、芝居も唯一無二の個性を持っていた内海を見ながら声優の仕事を覚え、時々は演じる仕事も振ってもらっていた[10]。このことを中田のようなキャリアの人物は「やっていけなかったかもしれない」と振り返っている[10]。
しばらくは映像の事務所と声の事務所の両方に所属して、どちらを選ぶか迷っている時期もあった[10]。映像の仕事では、1週間スケジュールが空いて相手に丸投げできるような状態ではないと決めてもらえず、他の人物に仕事が行ってしまうこと、声の事務所に仕事が来ていた時に映像の事務所に電話して、スケジュールが押さえられているかどうかを確認し、声の事務所に折り返して二度手間が掛かっており、声の仕事が忙しくなっていた時に「これはもう、どちらに専念するか決めてもらえないか」と事務所から言われ、映像の仕事と声の仕事の源泉徴収票の額面を比べて「よし、声の仕事をしよう!」と決める[10]。実写の役者として、「こういう役どころだったらいけるんじゃないか?」という確固たるものがなかったといい、演じることは好きだったが、舞台だけ、映画だけ、テレビだけ、声の仕事だけといったこだわりはなく中田自身は「どんな形でもいいから演じる仕事があって、生活が安定して、自分のペースでやっていけるならなんでもいい」と感じていた[10]。舞台、映画に命を捧げるといった強い気持ちはなく生活基盤がないと、時間に追われ、磨くこともできないのが心配だったという[10]。
その後、大沢事務所のキャスティングマネージャーの人物に何度かお世話になっていくうちに誘われ、可能性にかけてみようと移籍し、1990年代以降は声優活動に仕事の主軸を移した[7][14]。しばらくはナレーション、CMの仕事を生業して、1993年ごろに『機動戦士Vガンダム』のナレーションなどでアニメ、外画の吹き替えの声優の仕事が増える[14]。役名付きでの初レギュラーは1994年の『BLUE SEED』のムラクモとなる[14]。『BLUE SEED』の音響監督の若林和弘を声優としての「生みの親」として挙げており、「声優とはこういう風にやっていくものなのかな?」と教えてくれたという[14]。そこで色々と教わったあとに、『天空のエスカフローネ』ではオーディションから引っ張ってくれて、若林の作品で、声優としての仕事の仕方を、きちんと教わった気がしていたという[14]。
役柄としては数多くの渋くてかっこいいキャラクターを演じている[10]。
特技は乗馬[1][2]、ジャズダンス[1]、テニス[2]、野球[2]。
座右の銘は「解体。そして再構築」であると雑誌のインタビューで答えている[11]。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。