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岩手大学 | |
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上田キャンパス正門 | |
大学設置 | 1949年 |
創立 | 1876年 |
学校種別 | 国立 |
設置者 | 国立大学法人岩手大学 |
本部所在地 |
岩手県盛岡市上田三丁目18番8号 北緯39度42分57.0秒 東経141度8分18.4秒 / 北緯39.715833度 東経141.138444度座標: 北緯39度42分57.0秒 東経141度8分18.4秒 / 北緯39.715833度 東経141.138444度 |
学生数 | 5,402 |
キャンパス |
(2023年5月1日現在[1] ) |
学部 | |
研究科 | |
ウェブサイト |
www |
岩手大学(いわてだいがく、英語: Iwate University)は、岩手県盛岡市上田三丁目18番8号に本部を置く日本の国立大学。1876年創立、1949年大学設置。大学の略称は岩大(がんだい)。
岩手県唯一の国立総合大学であり、4学部5研究科を擁する。1876年設置の盛岡師範学校を起源とする。1949年に岩手師範学校、岩手青年師範学校、盛岡農林専門学校(第二次世界大戦前は盛岡高等農林学校)、盛岡工業専門学校(戦前は盛岡高等工業学校)を統合して設置された。日本初の高等農林学校である盛岡高等農林学校を前身としており、盛岡高等農林学校卒業生として詩人・童話作家である宮沢賢治を輩出したことから「宮澤賢治センター」が設けられている[2]。
盛岡市にある本部や上田キャンパスに加えて、水産業や東日本大震災の復興支援のため、釜石市に釜石キャンパス、陸前高田市には立教大学と共同で設置した陸前高田グローバルキャンパス、三陸地方各都市に研究所やサテライト・エクステンションセンターを持つ[3]。また、総敷地面積は東京ディズニーランド約29個分相当である14,719,585 m2であり、全国立大学で7番目の広さを誇る[1]。
農学部には国内でも数少ない獣医師養成の課程を擁する。国立旧一期校の一つであるが、現在に至るも医学部を有しない。
出典:[4]
岩手大学は、真理を探究する教育研究の場として、学術文化を創造しつつ、幅広く深い教養と高い専門性を備えた人材を育成することを目指すとともに、社会に開かれた大学として、その教育研究の成果をもとに地域社会と国際社会の文化の向上と発展に貢献することを目指している。 また、以下の3つを大学運営の目標として掲げている。
岩手大学は「地域の知の府」「知識創造の場」として、教育・研究・社会貢献活動を推進している。また、産学官連携にも重点を置いており、学生主体による学内カンパニーや、工学GIRLS等の大学独自の取り組みがある[1]。
1876年(明治9年)8月に岩手県仁王村内丸に岩手県立盛岡師範学校が開校した。
学校の名称は1879年(明治12年)に県立岩手師範学校、1886年(明治19年)に岩手県尋常師範学校と改称された。1899年(明治32年)には女子部が開設され、3年制の教育課程が設けられた。
1925年(大正14年)に現在の盛岡市高松4丁目に移転し、後に第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に岩手県師範学校・岩手県女子師範学校を統合して官立岩手師範学校となった。
明治時代、東北地方は頻繁な冷害による凶作・飢饉に見舞われ、農業が衰退し農村が疲弊していた。政府は東北農業振興のため、農業技術者の養成と農業技術の向上が急務と判断し、高等農林学校の設置を計画した。 1900年3月、東京帝国大学の玉利喜造ら4名が文部省の委員として東北地方の実地調査と設置場所の選定を行い、盛岡市を候補地に選定した。1901年12月の帝国議会で官立盛岡高等農林学校の設置が正式決定し、1902年3月27日、勅令第98号により設置が認められた。
初代校長には農学博士第1号の玉利喜造が就任。1903(明治36)年5月に農学科、林学科、獣医学科の3学科で開校した。教育目的は実務的な農業技術者ではなく、地域の指導者となる「地方紳士」の養成であった[9]。1944年3月には 勅令第165号により、盛岡農林専門学校と改称した。
1939年(昭和14年)、戦時体制下における技術者需要に対応するため、官立高等工業学校として設立された。北海道、東北、関東、関西、四国、中国、九州の7か所に新設され、東北地区の候補地として盛岡、八戸、青森、郡山の4都市が争った結果、盛岡市が100万円の寄付を表明したことなどが決め手となり、盛岡での設置が実現した[10]。
初代校長に東北帝国大学工学部教授石原富松が就任。開校当初は現在の岩手公園内に仮校舎を設け、授業を開始した。機械、工作機械、電気、採鉱、冶金の5学科を設置し、各学科40名、総定員200名の学生を受け入れた。教育方針として「教育勅語」の精神を基調とし、戦時体制に即応した実学中心の人材育成を掲げた[10]。
その後、現在の盛岡駅西口付近に校地を確保。一般市民の勤労奉仕も動員して本校舎建設を進め、1942年に竣工した。1944年4月には勅令第165号により、盛岡工業専門学校と改称した。
盛岡農業専門学校(盛岡高等農林学校)は、1902年に設置された我が国で最初の高等農林学校であり、大正末期から既に単独での大学昇格を目指す動きが存在し、東北農業のメッカとも称される伝統ある学校であった。戦後、農専同窓会が中心となって単独昇格運動が開始されたが、1947年2月、当時の東北帝国大学より新制東北大学農学部としての合併の申し入れがなされる。これは当時の東北帝国大学が農学部を有していなかったためである。農専側は同窓会と教官会議が合併推進を決定し、11月には文部省もこれを認めた。また、当時の盛岡市議会もこれを推進した[11]。
しかしながら、同年11月に岩手選出国会議員野原正勝らが盛岡農専や医科大学、工業専門学校、師範学校などを総合する総合大学案を発表した。これを受けて総合大学期成同盟会が発足するとともに、岩手県議会も総合大学案への支持決議を行った。世論は圧倒的に総合大学案へ傾き、農専教官会議もやむなく方針転換し、これに合流した。
総合大学期成同盟会発足後、農専学生が学生大会で合併案支持を表明するも、最終的には民主的手続きの結果を服することを表明した。また、1948年にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のCIE(民間情報教育局)から国立大学の一府県一大学の方針が要請され、同年文部省から新制国立大学実施要項が発表されたことにより、国立大学の県をまたがった設置が困難となり、農専の東北大学合併構想は幕を閉じた。こうして、1949年、師範学校を母体とする学芸学部、工専を母体とする工学部、農専を母体とする農学部の3学部で総合大学としての岩手大学が発足する運びとなった[11]。
岩手大学では当初、学芸学部の教員が教養教育を担当していた。しかし、それでは不十分であるとして、1954年に「一般教育部」が設置され、全学的な協力の下で教養教育に取り組む「岩大方式」が始まった[11]。
1963年の中教審答申を受け、教養部設置の動きが高まり、1966年には国立学校設置法の改正により、一般教育部を組織変更し、教養部が設置された。しかし、同年学芸学部の教育学部への改組に伴い教養部の教員の四分の一が教育学部へ移動し、教養部発足後は教員数の制約から教養教育予算が削減され、予算・人員共に弱体化した[11]。
そこで、1976年当時の植村定次郎学長や教養部の教員を中心に当時教養学部を総合科学部として新設した広島大学を参考にした一般教養教育改革の構想がまとめられる。文部省との折衝を経て教養部は人文社会科学部と名称を変更し、1977年5月に新設された。教員数は38名から93名と大幅に増員され、専門教育と教養教育の両立が可能となった[11]。
2000年2月から岩手大学・弘前大学・秋田大学3大学の学長による定期的な懇談会が始まり、教員養成・大学の将来像について意見交換が行われた。2000年8月には「北東北国立3大学連携推進会議」を設置し、単位互換などの具体的な連携策の検討が始まった。2001年8月、3学長が「統合も選択肢の一つ」と合意。同年12月、岩手大学が他の2大学に統合や学部再編の検討体制の構築を提案し、2002年2月に「3大学の再編・統合問題に関する懇談会」が発足した[12]。
岩手大学と弘前大学が前向きな姿勢にある一方、秋田大学は慎重姿勢である。運営諮問会議からも地元の反対意見が表明されている。懇談会は2003年5月の中間報告で、再編・統合の方向性を翌年春までに示す必要性を述べつつ、具体的再編・統合案の議論は時期尚早と判断した。3大学の具体的な目指すべき大学像はまだ不明確な状況である[12][13]。
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で釜石市に滞在していた学部生1人が津波に呑まれ死亡し、多くの学生・教職員が被災した。また、大学本部がある上田キャンパスでは人的被害や火災は発生しなかったが、建物・設備等の多くにひび割れ、破損等が発生した。大学当局は復旧に追われ、予定されていた後期試験を中止。大学入試センター試験の点数で合格者を決める異例の措置を採った[14]。
2011年4月には100人規模の学生ボランティアが派遣され、災害支援が行われた[15]。同年10月には釜石市に釜石サテライトを設置し、東京海洋大学・北里大学・岩手大による「三陸水産業の復興と地域の持続的発展に向けた3大学連携推進」の協定書が締結された[16]。また、2012年から2013年にかけて、久慈エクステンションセンター、宮古エクステンションセンター、大船渡エクステンションセンターが設置され、各自治体と連携した復興支援が行われた[17]。
2016年に農学部に水産システム学コースが新設され、2017年には釜石サテライトが釜石キャンパスへと改称した[18]。また、同年立教大学と共同で陸前高田市の協力の下、陸前高田市に陸前高田グローバルキャンパス(岩手大学・立教大学陸前高田サテライト)を設置した[19]。2019年には自治体や企業、NPO法人等で働く社会人向けに、防災・まちづくりを学ぶことができる大学院1年制のコースを設置している[20]。
岩手大学では2025年度から理工学部・農学部の改組に伴い、新たに獣医学部の新設計画が予定されている。また、設置が認可されれば、東北の国立大学で初めての獣医学部誕生となる[21]。
2023年5月1日時点[25]
この節の出典[26]
代 | 氏名 | 任期 |
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1 | 鈴木重雄 | 1949年(昭和24年)5月31日〜1949年(昭和24年)12月19日[注 1] |
1 | 鈴木重雄 | 1949年(昭和24年)12月20日〜1959年(昭和34年)12月19日 |
2 | 樋口盛一 | 1959年(昭和34年)12月20日〜1969年(昭和44年)12月19日 |
3 | 黒澤誠 | 1969年(昭和44年)12月20日〜1973年(昭和48年)12月19日 |
4 | 植村定次郎 | 1973年(昭和48年)12月20日〜1974年(昭和49年)4月13日 |
5 | 加藤久彌 | 1974年(昭和49年)4月13日〜1974年(昭和49年)6月4日[注 2] |
5 | 加藤久彌 | 1974年(昭和49年)6月5日〜1980年(昭和55年)6月4日 |
6 | 原田三郎 | 1980年(昭和55年)6月5日〜1986年(昭和61年)6月4日 |
7 | 高橋八浪 | 1986年(昭和61年)6月5日〜1990年(平成2年)6月4日 |
8 | 船越昭治 | 1990年(平成2年)6月5日〜1996年(平成8年)6月4日 |
9 | 海妻矩彦 | 1996年(平成8年)6月5日〜2002年(平成14年)6月4日 |
10 | 平山健一 | 2002年(平成14年)6月5日〜2008年(平成20年)6月4日 |
11 | 藤井克己 | 2008年(平成20年)6月5日〜2014年(平成26年)3月31日 |
12 | 堺茂樹 | 2014年(平成26年)4月1日〜2014年(平成26年)11月16日[注 3] |
13 | 岩渕明 | 2015年(平成27年)3月16日〜2020年(令和2年)3月31日 |
14 | 小川智 | 2020年(令和2年)4月1日〜現職 |
岩手大学のスクールカラーは 岩大グリーン(#196d27)である[27]。これは上田キャンパスの豊かな自然景観と宮沢賢治の詩集「春と修羅」にある、ドイツ語の"ZYPRESSEN"(日本語訳で糸杉)が由来となっている[27]。
また、各学部ごとのカレッジカラーも存在する[27]。
岩手大学は2017年まで上田キャンパスのみの単一キャンパスであった。2017年からは2つのキャンパスが新設されたが、釜石キャンパスは農学部の一部のコースの学生の3・4年時のみ利用、陸前高田グローバルキャンパスは主に交流活動に利用されるため、ほとんどの学生は上田キャンパスで過ごすこととなる。
人文社会科学部、教育学部、理工学部、農学部の4学部及び教育研究支援施設が集まっている[35]。盛岡市道を挟んだ南側には人文社会科学部、教育学部、農学部、北側には理工学部が設置されている。このように、理工学部のみ市道を挟んだ北側に設置されているのは、かつて岩手大学理工学部の前身である盛岡高等工業学校が1937年に内丸から盛岡高等農林学校の隣に移転した名残である[36]。キャンパス内は植物園、自然観察園など自然に溢れており、近隣住民が散歩等に利用することが多い。盛岡高等農林学校時代の建物や温室が現存しており、特に農業教育資料館や門番所は国の重要文化財として登録されており、当時に建てられた建築物の多くは現在も岩手大学ミュージアムなどの展示施設として利用されている。[37][38]。キャンパス内岩手大学図書館3・4階には放送大学岩手学習センターが設置されており、多様な学習の機会が提供されている[39][40]。
運行事業者 | 乗車ターミナル | 路線・系統 | 下車停留所 |
---|---|---|---|
岩手県交通 | 盛岡駅バスターミナル | 307/334/311 | 岩手大学前 |
岩手県北バス | 「E01 厨川駅」行き/「E03 厨川駅西口」行き[41] |
運行事業者 | 乗車ターミナル | 系統 | 下車停留所 |
---|---|---|---|
岩手県交通 | 盛岡駅 | 311 | 理工学部東口 |
東日本大震災からの復興支援の一環として、2011年旧北里大学海洋バイオテクノロジー釜石研究所跡地に岩手大学釜石サテライトが置された。[43]2017年10月に岩手大学釜石サテライトから改称され釜石キャンパスを設置した。主に農学部水産システム学コースの一部の学生が利用する。[23]2019年には全国初となる地方公共団体(岩手県・釜石市)からの補助金を活用して総合教育研究棟(水産系)が設置された[18]。平田駅徒歩15分の位置にある。
愛称は「たかたのゆめキャンパス」である。東日本大震災による陸前高田市の復興支援の一環として、2017年4月、陸前高田市協力のもと岩手大学と立教大学が共同で設置した。建物は旧陸前高田市立米崎中学校の建物が改装され使われている。主に三陸地域の交流活動や復興支援の拠点となっている。[7]
立教大学は、2003年から陸前高田市矢作町生出地区で夏季の林業体験プログラムを開始し、陸前高田市との継続的な交流がされていた[19]。2011年3月東日本大震災が発生し、陸前高田市に甚大な被害を与える。これを受けて岩手大学と立教大学は学生ボランティア等を通じて、被災地の復興支援に注力した。2016年1月陸前高田市、岩手大学、立教大学の三者は、相互協力及び連携協定を締結し、2017年4月陸前高田グローバルキャンパスが正式にオープンした。キャンパスは、旧陸前高田市立米崎中学校の校舎を利用し、陸前高田市が国の地方創生加速化交付金を用いて改修された[44]。
上田地区(上田キャンパス内)に自啓寮、同袍寮、高松地区(大学から約2km)に北謳寮、紅梅寮を置く。また、自啓寮は2人部屋男子寮、同袍寮、北謳寮は個室男子寮、紅梅寮は個室女子寮である。[45][46]また、自啓寮、同袍寮はそれぞれ岩手大学の前身である、盛岡高等農林学校、盛岡高等工業学校時代の寄宿舎から続く伝統のある寮である。
自啓寮は、盛岡高等農林学校の学生寄宿舎であった。大正時代初期に設立され、多くの学生が生活していた。宮澤賢治もこの寄宿舎に滞在し、室長もつとめていた。宮沢賢治は1915年4月から1917年4月までの約2年間、自啓寮で生活し、この期間は宮沢賢治の創作活動に大きな影響を与えた時期とされる。宮沢賢治の親友であり、『銀河鉄道の夜』のキャラクター、カンパネルラのモデルとなった保阪嘉内は宮澤賢治と同室であった。[47]。盛岡高等農林学校時代の自啓寮は老朽化により移転しているが、かつての跡地には郷土森林生態観察モデル林が造成され、自啓寮跡碑が建てられた。
同袍寮は、盛岡高等工業学校の学生寄宿舎であった。盛岡高等工業学校設立時、盛岡市は、45万円の拠出を行ったが、学生寄宿舎の費用はその中に含まれていなかった。当時の雪沢県知事は県財政の苦境から、 中村松尾鉱業に寄宿舎建設にかかる費用の寄附を懇願した。当時の社長であった中村房次郎氏はこれを快諾し、学生寄宿含建築費として32万円の寄附を申し出た。こうして盛岡高等工業学校の寄宿舎「同袍寮」が設置された。その後、1956年に同袍寮前に中村氏を称える頌徳碑が設置された[10]。
毎年10月に、上田キャンパス構内で、「不来方祭」を開催している。[48]不来方祭では一般の来場者を迎え、サークルや団体による野外ステージ・屋外屋内の模擬店の出展が行われる。[49]
岩手大学には約140の課外活動団体があり学生主体の「委員会」の他、「サークル」「同好会」が存在する。[50]
また、毎年4月には新入生勧誘のためのサオリ(サークルオリエンテーション)やサフェス(サークルフェスティバル)が行われる。[50]
2023年12月時点
(この節の出典:[50])
(この節の出典:[50])
(この節の出典:[50])
(この節の出典:[50])
学内カンパニーは2009年から岩手大学理工学部ものづくりエンジニアリングファクトリーが提供する学びの実践の場であり、学生が主体となって運営する仮想的な企業であり、理工学部以外も参加可能である。所属する学生は事業企画、設計、部品発注、試作、製作、業績把握、損益確認など、一般企業のような業務を経験する。また、活動に応じて給与も発生する。2023年6月時点で正カンパニー11社、準カンパニー1社が認定されている。[51][52]
工学GIRLSは理工学部女子の有志で構成され2010年から活動している。工学GIRLSは比較的男性比率の高い理工学部を女子学生にとって過ごしやすい環境にすること、理系・理工学の魅力を発信して理工学部に女子を増やすことの2つを目的としており、小中学生向けの科学教室、オープンキャンパスでの女子高生向けの相談会を主な活動としている[53][54][55]。
NEXT STEP工房は2018年度から活動している岩手大学の学生による地域に関わる研究や活動プロジェクトを活発化することを目指す、地域活動や研究支援のプラットフォームである。NEXT STEP工房は岩手大学の身近な地域の活性化やそこが抱える課題解決を目指して活動している学生団体がより活動しやすい環境を整え活動の場を提供することを目的とする。該当する学生団体の活動が認定されることで、活動費の支援等が発生する。[56]
教員所属組織
岩手大学組織図による[62]。
三陸復興・地域創生推進機構を中心に、金融機関を含めた企業や地方自治体との連携に取り組んでいる。個々の企業との共同研究や協定のほか、いわて産学連携推進協議会を通じて大学発シーズの実用化を進めている[64]。2007年には大学の研究成果の企業への技術移転、新規創業支援及び研究開発型企業の誘致を推進する拠点施設である「盛岡市産学官連携研究センター(コラボMIU)」[65]や2018年には企業と連携し実証研究を行う拠点施設である「銀河オープンラボ」を開設した [66]。
(この節の出典:[67]}
2013年の学園祭と[68]、2014年と2015年のオープンキャンパスでは[69][70]、学生が作成した映像コンテンツなどを来場者向けに情報発信することを目的として、テレビ岩手によりホワイトスペースを利用するエリア放送が実施された。
構内に地上一般放送局が設置されていた[71][72][73]。
免許人 | 局名 | 呼出符号 | 物理ch | 周波数 | 空中線電力 | ERP | 業務区域 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
株式会社 テレビ岩手 |
テレビ岩手 エリア放送 |
JOXZ2CL-AREA | 52ch | 707.142857 MHz | 10 mW | 1 mW | 岩手大学周辺 |
JOXZ2CW-AREA | |||||||
JOXZ2CX-AREA |
(この節の出典:[74])
(この節の出典:[74])
2022年日本経済新聞社と日経HRが実施した企業の人事担当者から見た大学イメージ調査において、『採用を増やしたい大学』ランキングで全国1位、総合ランキングでは全国第20位にランクインした[75]。
・
・2011年3月、岩手大学は硬式野球部の監督を務めていた教育学部の准教授が部員に対して暴力行為を行っていたと公表した。大学の調査によると、准教授は2008年から2010年にかけて、少なくとも5人の部員に対し、プレーや態度を理由に平手打ちなどの暴力を加え、口を切るなどのけがをさせていた。この問題は2010年12月に外部からの情報提供で発覚した。准教授は1994年から監督を務めており、暴力行為を「体罰だった」と認めている。岩手大学は既に准教授の部長職を解任し、3月中に監督職も解任する方針を示した。また、懲戒審査委員会で処分を検討中であることを明らかにした[76]。
・2015年10月、岩手大学は工学部の助教が英国への出張中にノートパソコンを紛失したと発表した。このパソコンには、学生のべ1,526人分の個人情報や2016年度入学試験の問題案などが保存されていた[77]。助教が地元の警察とタクシー会社に問い合わせたところ、かばんの中に入れていたパスポートは近くのショッピングセンターで発見されたものの、それ以外は見つかっていないという。岩手大学は、学生らに謝罪するとともに入試の問題の内容を差し替えることとした[78]。
・ ・2021年9月、岩手大学は農学部の男性講師による研究費の不正受給を公表した。講師は2014年度から2020年度までの7年間にわたり、カラ出張や架空の業務を通じて合計約168万円の研究費を不正に取得していた。この中には科研費約134万円も含まれていた。大学の調査に対し、講師は不正受給した研究費を研究室の運営に充てたと述べ、私的流用を否定した。大学は講師を停職6か月の懲戒処分とし、不正受給額の全額返還を求めた[79]。
・2022年9月、岩手大学は理工学部教授による経費の不正使用を公表した。教授は学生に架空の謝金請求を行わせ、現金を還流させてプール金を作っていた。約97万円の不正使用が5年間にわたって行われ、一部は私的流用されていた。大学は教授を停職11ヶ月の懲戒処分とし、不正使用額の返還を求めた[80]。
・2023年9月、岩手大学は理工学部元特任准教授による研究不正を公表した。元准教授は学生の卒業論文のデータを無断で流用し、単著論文として投稿していた。大学は調査の結果、盗用および不適切なオーサーシップと認定した。元准教授は既に退職していたが、論文の取り下げを勧告された[81]。