基本情報 | |
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生誕 | 1957年8月29日(67歳) |
出身地 | 日本・東京都世田谷区 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | キーボード |
活動期間 | 1978年 - |
事務所 | ロージャム |
共同作業者 | |
公式サイト | Shiro SAGISU OFFICIAL SITE |
鷺巣 詩郎(さぎす しろう[1][2]、1957年〈昭和32年〉[1][2]8月29日[3] - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー[2]。本名同じ[2]。東京都[1][2]世田谷区出身。映像制作会社ピー・プロダクション代表[1]。既婚。
父は漫画家でピー・プロダクション設立者のうしおそうじ(本名:鷺巣 富雄)。叔父はアニメ制作会社エイケンのプロデューサーの鷺巣政安[4]。
1980年代初頭のアイドル歌謡曲時代から、インストゥルメンタル・アーティスト、近年のシンガー・アーティストに至るまで広範囲にわたり、多くの楽曲を手掛けている。映画、テレビなど、あらゆる映像音楽(サウンドトラック)分野での活動も含めると、それらの作品数は膨大である。
他方面では『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)における楽曲群や、中央競馬の馬場入場テーマソング(西日本および北海道開催、2009年まで使用)と北海道地区の発走ファンファーレなども手がけている。
2004年の父・うしおそうじの死去に伴い、ピー・プロダクションの経営を引き継いでいる。
1979年に『EYES』というリーダー・アルバムをリリース。1980年代から多くのクラシカル・クロスオーヴァー・アーティストも手がけ、クライズラー&カンパニー(葉加瀬太郎)や川井郁子などのアーティストを発掘した。1990年代よりヨーロッパでも活動、パリでのクラブ経営、英仏アーティストも手がけ、また日本人としては初めて韓国映画の音楽監督を務めた。1999年よりソロとしてのアーティスト活動を再開する。以降はライフワーク『SHIRO'S SONGBOOK』シリーズとして、現在までCDを8枚、DVDを1枚リリース。
R&B専門誌『bmr』や音楽誌『ADLIB』での連載、USENサイトへのコラム、ブログなど執筆活動も行っている。2017年からはこれまでの連載コラムと新原稿で構成された書籍『執筆録』シリーズが刊行されている。タイトルは1巻目が『鷺巣詩郎 執筆録 其の1』、続刊が『鷺巣詩郎 音楽と世界』(ともにDU BOOKS)である。
現在は、ロンドン、パリ、東京の3か所を主な拠点として活動している。
幼少期には、ピー・プロダクションが制作した特撮テレビドラマ『マグマ大使』に出演していた江木俊夫とよく遊んでいたという[4]。『宇宙猿人ゴリ』の放送前には父に同行して宣伝チラシを新聞販売所に配った[5]。高校時代には、怪獣ショーの企画制作も行っていた[1]。
庵野秀明監督作品の常連であり、『ふしぎの海のナディア』以降の多くのアニメ作品の音楽監督としてタッグを組んでいる[1][2]。鷺巣によれば、庵野は初期には具体的な音楽メニューを提示していたが、後年は特別なリクエスト以外は鷺巣側から提示したものを選んでいるといい、映像に先行して作曲した音楽でも映像にピタリと合わせてくるため、自身の書いた楽曲であっても「庵野秀明の音楽」になってしまうはまり具合であると述べている[1]。庵野は、鷺巣とは音楽メニューがなくてもいけるほど互いを理解していてやりやすく、鷺巣の曲を聞くことでインスピレーションが湧いてきて編集の必要がないぐらい尺にピタリとはまると語っている[6]。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の主題歌「THANATOS -IF I CAN'T BE YOURS-」を歌ったアーティストLOREN&MASHのMASHとは、MASHのメンバーのMartin LascellesとShiro Sagisuの名前Ma+Shを合わせたもの。このMASH名義で1996年より3枚のアルバムを日英でリリースしている。Martin Lascellesはイギリスのプロデューサーであり、エリザベス2世女王の4親等にあたる英国王室親族の人物でもある。
パリのスタジオで作業中にプロデュース、作曲、編曲、指揮、プログラミングをこなしながら、フランス人7人を相手に毎日違ったフランス料理を4週間連続で作った。ニューヨークを中心に米各地のスタジオでMISIAの楽曲群がミックスされた際、鷺巣の手による個性的なストリングス・アレンジがアメリカ人スタッフの間で評判になり、サトシ・トミイエにも伝わり、その縁で彼のアルバム『Full Lick』内にある「Inspired」など数曲のストリングス・アレンジを担当した。
2020年東京オリンピックの開会式で国歌「君が代」の編曲を担当した[7]。
音楽制作にあたっては、仕事を受けた段階でインスピレーションがどんどん溢れ出るため、それをいかに逃さないかが勝負であるといい、作曲で行き詰まった経験はないと述べている[1]。父・富雄も下書きなどをせずに絵や文章を書いていたといい、幼少期からそういった姿を見ていたことから作家とは始めたら湧き出て止まらなくなるものという認識になったという[1]。
映画音楽は作品ではなく監督につけるものという持論を掲げており、音楽によって監督のフィロソフィーを観客に感じさせることが重要であると述べている[1]。制作現場は適度な緊張感のある張り詰めた雰囲気を好んでおり、昨今のあらゆる職場ではそういった空気が失われたが、庵野の作品ではそれが感じられて落ち着くと語っている[1]。